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光市母子殺害事件差戻審 36・ 人間は死刑判決には無関心でいられない - 犯罪被害者の法哲学
犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考え... 犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 光市母子殺害事件について、世論の多数は本村洋氏の姿勢に共感し、元少年の死刑を望んでいる。なぜ多くの国民は、所詮は他人事であるにもかかわらず、殺人事件や死刑判決に関心を持たざるを得ないのか。それは言うまでもなく、すべての人間は必ず死ぬからである。そして、どんなにその事実を忘れようとしても、その事実から逃げることができないからである。その意味で、すべての殺人事件や死刑判決は、他人事でありつつ、他人事ではあり得ない。これは、現代社会は治安が悪く、いつ殺人事件に巻き込まれるかわからないという意味ではない。また、いつ冤罪によって逮捕されて裁判にかけられて死刑判決を言い渡されるかわからないという意味ではない。ましてや、裁判員制度の導入とは何の関係もない。 自分の死と他人の死は同じか
2008/04/23 リンク