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長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八)小林稔 - ヒーメロス通信
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長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八) 小林稔 47 来るべき詩への視座 ボードレールにおけ... 長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八) 小林稔 47 来るべき詩への視座 ボードレールにおける詩人像(一) 詩の未来を論じようとするとき、現代詩はボードレールが提出した諸々の問題を継承することが今でも可能であろうか、あるいは現代詩においてそれは,すでに過去のことであり、まったく新しい視点で見るべきなのかと問うなら、私の立場は前者である。このエセーの前半に長々と論考してきた「自己への配慮」というテーゼは、ここに受け継ぐべき場を持つことになる。 私がこのように考える機縁は、ミシェル・フーコーの一九八二年度のコレージュ・ド・フランス講義『主体の解釈学』にあった。元来、この私の論考それ自体がこの講義録を起点としたものである。この書物にわずかに垣間見える、フーコーによるボードレールへの言及と、次に来るフーコーの講義録『自己と他者の統治』、さらに『真理の勇気』では、キュニコス派からの哲学的継承