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四日市の中世城館⑧鵜之森 - 花の四日市スワマエ商店街
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四日市の中世城館⑧鵜之森 - 花の四日市スワマエ商店街
浜田城址 其の四 十六間四方白星兜鉢 YAHOO!地図より ① 参道入口左に“浜田城址”の石碑が立ちます。裏... 浜田城址 其の四 十六間四方白星兜鉢 YAHOO!地図より ① 参道入口左に“浜田城址”の石碑が立ちます。裏に浜田城の歴史が掘られています。 文明2年(1470)田原美作守忠秀(たはらみさくのかみただひで)は、この地に城を築き浜田城と称した。 忠秀は当時の赤堀城主 田原肥前守 景信の二男である。 その祖先は藤原鎌足であり、九代の末裔 俵藤太郎秀郷(御伽草子に描かれた三上山の百足(むかで)退治や平将門の討伐で勇名を轟かせた)の十一世の孫に豊前守景綱があり 信濃に移り佐野小次郎と称した。景綱より八世の孫 肥前守 田原孫太郎景信は、応永年代に上野の国赤堀より伊勢の栗原に移り、地名を赤堀と改め城を築いた。 景信はその実子 景宗を羽津に、次男忠秀を浜田に、三男を赤堀に置いた。 忠秀は築城の後、常盤の芝田町を通っていた東海道を城東に移し、東西に大道を通して市街を構成し、市場をひらいて今日の四日市の発展