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斗南藩の生き地獄~元会津藩士たちが追いやられた御家復興という名の流刑 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 2ページ
明治2年(1869年)11月4日は会津藩主・松平容保の長男である松平容大の相続が決まり、陸奥国にて3万石の... 明治2年(1869年)11月4日は会津藩主・松平容保の長男である松平容大の相続が決まり、陸奥国にて3万石の地を領することになった日。 会津の地を去り【斗南藩(となみはん)】として再出発を図るのですが、これが地獄の始まりでした。 もともと会津藩は28万石。 それに対し、新天地の斗南藩は平地が少なく、3万石どころか実質7千石ともされ、当然ながら藩士全員を連れていくことなど叶わず、そのまま会津に残ったり、あるいは北海道へ渡ったりする者など、散り散りにさせられます。 いわば明治新政府からの厳しい仕打ち=流刑であり、それでも彼らはなんとか生を繋いでゆきました。 では、いったい斗南藩とはどのような場所や暮らしぶりだったのか? 振り返ってみましょう。
2019/02/17 リンク