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行き遅れのお姫様・竹姫(浄岸院)が島津へ嫁ぐ~幕末薩摩への影響も
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行き遅れのお姫様・竹姫(浄岸院)が島津へ嫁ぐ~幕末薩摩への影響も
安永元年(1772年)12月5日、後に浄岸院(竹姫)と呼ばれる女性が亡くなりました。 「竹姫」というあり... 安永元年(1772年)12月5日、後に浄岸院(竹姫)と呼ばれる女性が亡くなりました。 「竹姫」というありふれた名前なので、院号で原稿を進めよう……と思ったのですが、経緯的にシャレにならない気がしてきたので本名にさせていただきます。 竹姫は清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)という公家の娘として生まれました。 順当に行けばそのまま京都で一生を終えていたのでしょう。 しかし、父の従姉妹がときの将軍・徳川綱吉に嫁いでいたことで、運命が大きく変わります。 お手がついて側室になったものの、子供ができなかったその女性は、大奥での地位を少しでも安定させようと考え、竹姫を養女にしたいと申し入れてきたのです。 年齢的に綱吉のお相手は無理でも、次の将軍のお手が付けば……と考えたのでしょうか。 ※以下は徳川綱吉の考察記事となります