エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
「第20回 帰ってきた義経」『鎌倉殿の13人』 - 仮文芸
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
「第20回 帰ってきた義経」『鎌倉殿の13人』 - 仮文芸
サイコを扱うとなれば、サイコの哀れに到達すべきだ。サイコの自意識を発見すべきである。この人生は苦... サイコを扱うとなれば、サイコの哀れに到達すべきだ。サイコの自意識を発見すべきである。この人生は苦痛であったと。九郎の場合、その自意識が最初に露見したのは壇ノ浦の直前だった。景時に自分のサイコ性を指摘して謝する場面がある。サイコを非属人化して当人から分離し、自分もサイコの犠牲者だったと表白させる。しかし、そもそもそれはサイコなのか。自意識あるサイコとは形容矛盾ではないか。 このはなしは『マーダーボット・ダイアリー』である。『マーダーボット』では人間を装おうとする殺人AIの挙動不審を通じて、ASDの辛みが叙述され、ASDという人生が文芸的に評価された。 このはなしも同じである。小四郎が最後に観測するのはASDの痛ましさである。この期に及んでも鎌倉攻略の構想、つまりオタ話をキャッキャッと開陳してしまう。弁慶最期の奮戦をASD仕草丸出しで観察してしまう。われわれがこれまで観察していたのは、あるAS