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東京が水都だったことを伝える「江戸湊」ってどこ? 都電が走った57年前の情景 | AERA dot. (アエラドット)
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東京が水都だったことを伝える「江戸湊」ってどこ? 都電が走った57年前の情景 | AERA dot. (アエラドット)
水運による物流集積地として栄えた「江戸湊」を左に見て、眼鏡橋として親しまれた高橋を渡る5系統目黒駅... 水運による物流集積地として栄えた「江戸湊」を左に見て、眼鏡橋として親しまれた高橋を渡る5系統目黒駅前行きの都電。越前堀~八丁堀 (撮影/諸河久:1965年9月5日) 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、かつて「江戸湊」と呼ばれた中央区・高橋周辺の情景を紹介しよう。 【写真】現在の同じ場所は激変? 57年が経過した「今」はこちら * * * 江戸が「水都」だったことを示す地名はいまでも数多く残っている。今回紹介する「八丁堀」もしかり。かつて舟運で栄えた場所は、昭和の高度経済成長期には都電が足となった。 冒頭の写真は、越前堀停留所を発車して亀島川に架かる「高橋」を渡る5系統目黒駅前行きの都電。このコンクリートアーチ様式の高橋は1919年の竣工で、橋上の八丁