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なぜ「日本」は「ヤマト」と呼ばれたのか…「国の名前」をめぐる意外な歴史(松岡 正剛)
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なぜ「日本」は「ヤマト」と呼ばれたのか…「国の名前」をめぐる意外な歴史(松岡 正剛)
日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さ... 日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する! *本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。 国号「日本」の成立 ニホンかニッポンか、どう発音するかはべつとして、「日本」という国号はどこで決まったのかというと、七世紀後半から八世紀あたりです。それまでは「倭」です。自称していたわけではなく、中国の歴史書の『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝、『隋書』倭国伝などが、日本のことを「倭」と、日本人を「倭人」と示したので、それに従っていたのです。「倭の五王」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。 当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅(加耶)諸国と軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて