![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/372489352b9b4007716378b7b6e9d2b937a5088a/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fgendai-m.ismcdn.jp%2Fcommon%2Fimages%2Fv3%2Fmeta%2Ffb_ogp-image.png)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
【第5回】靖国神社「A級戦犯合祀」をめぐる暗闘(田原 総一朗) @gendai_biz
【第4回】はこちらをご覧ください。 合祀はなぜ強行されたか 筑波藤麿宮司に代わって第六代の靖国神社宮... 【第4回】はこちらをご覧ください。 合祀はなぜ強行されたか 筑波藤麿宮司に代わって第六代の靖国神社宮司に就任したのは、元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐として退官した後は、福井市立郷土歴史博物館長をつとめていた松平永芳であった。 松平は、幕末の福井藩主松平春獄の孫で、最後の宮内大臣を務めた松平慶民の長男にあたる。彼は少年時代の一年間、平泉澄の邸にあづけられ、それ以来、平泉を師として仰ぐようになった。 平泉は、いわゆる戦後体制、つまり日本の昭和の戦争が侵略戦争だったとする「東京裁判史観」の打破を訴えた人物で、実は筑波前宮司も平泉と浅からぬ関係にあったのだが、筑波はそれゆえに、戦前の体制を否定していて、松平とは対極にあった。 松平は、宮司退任直後の2002年、A級戦犯の合祀を決断した経緯を、次のように述べている。 「私は就任前から『すべて日本が悪い』という『東京裁判史観』を否定しな
2015/09/25 リンク