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有時(うじ)するということ | 玄侑宗久公式サイト
宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な... 宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。 イエス・キリストも釈尊も、自分ではものを書き残さなかった。そのことで、どれだけ後世の宗教者に地域や時に応じた自由な説法の余地が与えられたか、計り知れない。 宗祖の巨大さは組織そのものの成り立ちにも影響する。我が臨済宗が十四もの大本山が並立しているのと違い、曹洞宗には整然たる総本山制がある。それも道元禅師の巨大さのせいだろう。だから、かなりの違いでも家風として受け容れてしまう臨済宗と違い、おそらく私のようなはみだし者には住みにくかろうと思えるのだ。 しかし蘭渓道隆は「済洞(臨済と曹洞)を論ずることなかれ」と言った。道元禅師にもその心がある。私にとっても禅師は多くの教えをくださった偉大な祖師である。しかも私が