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中原尚雄 - Wikipedia
中原尚雄の辞令書(山梨県警部長) 郷士・中原正兵衛の長男として伊集院郷下谷口西久保(鹿児島県日置市... 中原尚雄の辞令書(山梨県警部長) 郷士・中原正兵衛の長男として伊集院郷下谷口西久保(鹿児島県日置市伊集院町下谷口)に誕生。幼名は雄左衛門。戊辰戦争に兵器方として従軍し、明治維新後の明治4年(1871年)、東京府取締りのための邏卒召募を受け上京。10月20日、第一大区取締組組頭。警視庁に奉職、邏卒のち少警部となる。明治7年(1874年)1月10日、西郷隆盛の下野とともに依願免官し、台湾出兵に参加し、のち復職。 明治10年(1877年)1月11日、同郷の大警視・川路利良の許可を受けて鹿児島県出身の警視庁同僚ら24名と共に久しぶりの帰郷を果たす。しかし「帰郷」は表向きの名目であり、事実は以前から明治政府が警戒していた私学校徒及び西郷隆盛ら私学校幹部の偵察、ならびに旧郷士族の私学校からの離間工作活動のための潜入だったとされる。 帰郷した尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止め