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朝比奈泰朝 - Wikipedia
朝比奈泰能の子として誕生。生年は一説に天文7年(1538年)とされる。生母について明記した史料はないが... 朝比奈泰能の子として誕生。生年は一説に天文7年(1538年)とされる。生母について明記した史料はないが、父・泰能の正室は中御門宣秀の娘で、寿桂尼(今川義元の母)の姪にあたる。こうした縁から父と共に山科言継らとの交流も深く、弘治2年(1556年)には言継から「梶井宮之御筆百人一首」を与えられている。 父の死後に家督を継承し、備中守を称する。永禄元年(1558年)には駿東郡の霊山寺(現・沼津市)を再興している。永禄3年(1560年)には、今川義元の尾張国侵攻で井伊直盛と共に織田氏の鷲津砦を攻略。窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の義元が桶狭間の戦いで討死。やむなく放棄し、撤退した。 義元の横死後、三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた。永禄5年(1562年)3月には、小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害し
2013/07/21 リンク