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不思議でも何でもなかった、秀吉の「中国大返し」 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(前編)【JBpressセレクション】 | JBpress (ジェイビープレス)
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JBpressで掲載した人気記事から、もう一度読みたい記事を選びました。(初出:2021年2月8日)※内容は掲... JBpressで掲載した人気記事から、もう一度読みたい記事を選びました。(初出:2021年2月8日)※内容は掲載当時のものです。 (城郭・戦国史研究家:西股 総生) 「中国大返し」の本当のキモ 備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の第一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜である。明智光秀は2日の未明、本能寺に織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発していたが、これが秀吉軍に捕らえられたのである。 ここからの秀吉の動きは速かった。備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退。世にいう中国大返しの始まりである。