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2018.8.3 「一無位の真人」 - カメキチの目
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2018.8.3 「一無位の真人」 - カメキチの目
カメキチの目 きょうは禅語。 一 無 位 の 真 人 (いち む い の しん にん) (臨済宗の禅... カメキチの目 きょうは禅語。 一 無 位 の 真 人 (いち む い の しん にん) (臨済宗の禅語録『臨済録』より) 自分なりにあえて直訳すれば、人間はだれも一人ひとり真実の存在であり、 位(くらい)などないということでしょうか。 人間の「生」は、その人間を部分部分に切り離し、部分部分について何らかの「価値観」にもとづけば評価、価値づけできる、他人のその部分と比較することは可能でしょう。 でも、そもそも「部分部分に切り離す」なんてバラバラ事件のようなことが実際にできるのでしょうか(死体の解剖なら別ですが)。 人間の「生」は、全体としてしか存在しえません。 長短あって私。 清濁あって私。よくいわれることですが、神さまのような人間はいない。いたら神さまで、人間ではない。 (人間は、生まれたときから、生きるなかでも、どうにもならぬことがあります。 あとからふり返って「アレは『運命』だったのか