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「緑色の坂の道」vol.5344
約束の地。 ■ 会津戊辰戦争の後、「朝敵」会津藩に家名再興が許されたのは明治2年である。 政府が会津... 約束の地。 ■ 会津戊辰戦争の後、「朝敵」会津藩に家名再興が許されたのは明治2年である。 政府が会津藩士の謹慎を解いたのが明治3年1月。そしてこの5月に政府は松平容保の嫡子慶三郎(容大)に3万石を与え、斗南藩知事を命じている。 28万石から3万石。実質は7000石ほどの石高の土地である。 それでも、主家再興に希望を抱いた旧会津藩士たちは、三々五々下北半島をめざした。 会津から下北へはいくつものルートがあり、まず新潟に廻りそこから西廻りの航路をとる場合と、一旦仙台に出てそこから東廻りの船に乗る場合とがあった。 維新後、東京で謹慎を命じられていた藩士とその家族たちは、政府がアメリカからチャーターした外輪蒸気船で斗南の地に入っている。 明治3年の秋には陸路で直接会津から下北へ移住した婦人子ども、老人一行もいた。 彼らはほとんど着のみ着のまま、途中霙や雪にたたかれ、干した魚をかじりながら本州最北端