エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
大塩平八郎の足跡を辿る(1) 名与力時代
平八郎さんこと大塩平八郎は教科書で習った大塩平八郎の乱の首謀者にして名与力、高名な陽明学者でもあ... 平八郎さんこと大塩平八郎は教科書で習った大塩平八郎の乱の首謀者にして名与力、高名な陽明学者でもあり、江戸時代に北区を舞台に活躍した人です。 で、つらつらと合間を見て調べてみるとですな、このおじさん、なかなかタフなおじさん、かつ、なっかなかの「まっすぐな男」なのです。 書くこといっぱいあるんで、4~5回くらいにわけてエントリーします。 1793年(寛政5年)、大塩家の八代目として、初代からの屋敷であった天満で生まれてはります。もろ、北区民☆ 今、造幣局の官舎内に「洗心洞」の跡碑が建っていて、そこが屋敷跡です。洗心洞については後述するとして、この地の町名は今も「天満」ですから、もう、生粋の天満人です。 大塩家は、初代から代々、大坂町奉行所付きの与力の職を継承していて、禄高200石。これは悪い待遇ではなかったらしいです。禄高を現在の価値に直すのにはさまざまな計算方法があってひと筋縄ではないかない