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大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか
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大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか
非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚え... 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。 という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたば