![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/2bc8b9214cc14ffa2f0c604bf1bb922119beb2de/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fnewsatcl-pctr.c.yimg.jp%2Ft%2Fiwiz-yn%2Frpr%2Fwatanabedaimon%2F00373629%2Ftitle-1699253232742.jpeg%3Fexp%3D10800)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
島津氏も実は東軍に与する予定だった? 鳥居元忠の「血染め畳」、「血天井」とあわせて(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
島津氏も実は東軍に与する予定だった? 鳥居元忠の「血染め畳」、「血天井」とあわせて(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
大河ドラマ「どうする家康」では、伏見城が西軍の攻撃を受けて落城し、鳥居元忠は非業の死を遂げた。と... 大河ドラマ「どうする家康」では、伏見城が西軍の攻撃を受けて落城し、鳥居元忠は非業の死を遂げた。ところで、一説によると、西軍に与した島津氏は、実は東軍に味方したかったという。この話が史実か否か、考えてみよう。 西軍の一員だった島津義弘は、伏見城内の鳥居元忠に味方になる旨を伝え、入城して西軍と戦うことを希望したという(『島津家譜』)。しかし、元忠が拒否したので、実現しなかったといわれている。 慶長5年(1600)8月15日付の毛利輝元書状(「島津家文書」)によると、義弘は伏見城の攻撃で大手柄を立てたと書かれているので、『島津家譜』に書いていることと話が矛盾する。義弘は元忠に味方どころか、大いに軍功を挙げていた。 義弘が伏見城に入城を希望し、元忠を支援しようとしたのか否かを裏付けるのは難しい。その一方で、義弘は国元の薩摩から、十分な兵力を送り込んでもらえなかったのは事実で、その軍勢はわずか千余だ