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分かち合いとしての映画――三宅唱『夜明けのすべて』|しだゆい
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分かち合いとしての映画――三宅唱『夜明けのすべて』|しだゆい
かつて、友達を亡くしたことがある。この、自分を主語にした言い方にどこか居心地の悪さをぬぐえないま... かつて、友達を亡くしたことがある。この、自分を主語にした言い方にどこか居心地の悪さをぬぐえないまま、それでもたしかに在る傷の座を自分の内側に守り通すためのギリギリのエゴとして、それを選ぶ。彼とは高校で出会い、大学を出て働きはじめてからも定期的に連絡を取りつづけてきた、私にとってはほとんど唯一の相手だった。私だから話せたことも、私だから話せなかったことも彼にはあっただろう。亡くなる一週間前、新宿のロックバーに行こうと連絡があったが私は仕事を理由に断っていた。それきりだった。 通夜と葬儀には出ることができた。東京に戻る新幹線のなかで、ふと、このことを誰かに話したいと思った。同じような経験をして、できれば私のことも彼のことも知らないひとがよかった。そのときに、例えば三宅唱の『夜明けのすべて』に出てくる「分かち合いの会」のような場があることを自分が漠然とでも知っていたかどうか、今はもう覚えていない