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「大きな」映画と「小さな」映画 世界の全的な傾向に目を向けると、いま「映画」最大の問題は、多様な映... 「大きな」映画と「小さな」映画 世界の全的な傾向に目を向けると、いま「映画」最大の問題は、多様な映像環境の進化と乱立により、「映画」の定義そのものが揺らいでいることだ。それはインターネットが完全普及し、デジタルシネマが標準となった21世紀における映画のアイデンティティ・クライシスである。例えばYouTube動画は短編ドキュメンタリーとどう違うのか?とか、カンヌでも議論の対象となったNetflixのみの配信作は「映画」か否か?といった設問は幾らでも挙げることができるだろう。いまは劇場や映画祭のスクリーンで一定期間上映されるという流通回路に乗った動画を、主に「映画」と称しているに過ぎない。そして「映画らしさ」という受容イメージは、エジソンやリュミエール兄弟から100年以上、映画の歴史が積み重ねてきた共同幻想の上に成り立っていると断じても、決して言い過ぎではない。(参考:2018年、日本映画はニ
2019/04/15 リンク