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京都大原に「悲運の惟喬親王」の墓と棚田を訪ねる - 花と木と山が好き
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京都大原に「悲運の惟喬親王」の墓と棚田を訪ねる - 花と木と山が好き
渚の院(文徳天皇の離宮)にて桜を見てよめる 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 惟... 渚の院(文徳天皇の離宮)にて桜を見てよめる 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 惟喬(これたか)親王と紀貫之、そして在原業平とはどのような関係にあるのか詳しくは知らないけれど、惟喬親王の母の姓は「紀」であったと覚える。それが原因なのか、惟喬親王は文徳天皇の第一皇子でありながら「藤原」姓の女御の御子である第四皇子(惟仁親王)に皇位を譲ることになった悲運の親王として語り継がれている。 なぜこんなことを言うかといえば、先日 紀貫之の残した『土佐日記』を読んでいたところ、貫之が任期先の土佐から船で都に帰郷する際(なんと55日もかかっている)、淀川の上流枚方にあった渚の院付近を通過している時、そこでの惟喬親王と在原業平の風雅な交流を思い浮かべ、 “これ、昔名高く聞こえたる所なり。故惟喬親王の御供に、故在原業平の中将の、世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし といふ歌よめる