エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
ひき逃げした息子をかばう“裕福な加害者家族”と、すべてを失った“貧しき被害者遺族”…フィリピン映画がとらえる「罪悪感」と「赦し」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
ひき逃げした息子をかばう“裕福な加害者家族”と、すべてを失った“貧しき被害者遺族”…フィリピン映画がとらえる「罪悪感」と「赦し」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け
貧富の差が明らかである社会で…… ひき逃げ交通事故という犯罪から物語が始まるこの作品。 犯人の逃亡を... 貧富の差が明らかである社会で…… ひき逃げ交通事故という犯罪から物語が始まるこの作品。 犯人の逃亡を巡るサスペンスとか被害者家族による加害者への復讐物語のような、ありがちな展開を想像していると肩透かしを食らう。根底にあるのは、手酷い心の傷をもたらした“罪”に対して、人は“その罪に向き合うこと、そしてその罪を赦すこと”ができるのか、という問いだ。 高度経済成長期前の日本では、金持ちと貧乏人の格差は確かに存在していたし、だからこそ、丘の上の豪奢な屋敷に住む資産家の会社経営者(三船敏郎)の子供を誘拐して身代金をせしめよう考える貧乏な若者(山崎努)を描いた黒澤明監督の名作『天国と地獄』(1963/今度、デンゼル・ワシントン主演でハリウッドでリメイクされる!)にはリアリティが感じられた。 日本の場合、その後の高度経済成長で格差がほぼなくなり“一億総中流社会”となることで、世界で唯一成功した“社会主義