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中島岳志 著『思いがけず利他』より。6年生の道徳の『手品師』は誠実? それとも思いがけず利他? - 田舎教師ときどき都会教師
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中島岳志 著『思いがけず利他』より。6年生の道徳の『手品師』は誠実? それとも思いがけず利他? - 田舎教師ときどき都会教師
それは、親鸞が、「言葉の器」になろうとしていたからだと思います。親鸞にとって、『教行信証』を書く... それは、親鸞が、「言葉の器」になろうとしていたからだと思います。親鸞にとって、『教行信証』を書く自分は、先人の言葉をつなぐ触媒にすぎません。言葉は私のものではなく、私にやって来て留まっているもの。自分がオリジナルの何かを表現できるというのは、賢しらな自力に他なりません。言葉は常に過去からやって来るもの。そして、その背後にある浄土からやって来るもの。だから、『教行信証』は「言葉の器」になった自分を、そのままの形で表現するという方法がとられました。『教行信証』は、その内容以上に、そのスタイルが思想であるような書物です。 (中島岳志 著『思いがけず利他』ミシマ社、2021) こんにちは。冒頭の《それは》というのは、親鸞の『教行信証』が引用で埋め尽くされているのはなぜか(?)という問いを受けての「それは」です。その問い、引用好きの私にはたまりません。著者の中島岳志さんが考える《「言葉の器」になろう