エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(1862)に徳川幕府... 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。 文久二年閏八月一日、會津藩主松平容かた保もりは江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。 會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家か訓きん」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。 これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日午前九時頃京都三条大橋に到着
2015/02/15 リンク