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中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石 七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長が新説 | 行政・社会 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞
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中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石 七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長が新説 | 行政・社会 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞
中国の歴史書に名前が登場する最初の日本人、倭国(わこく)の王「帥升(すいしょう)」は弥生時代、吉... 中国の歴史書に名前が登場する最初の日本人、倭国(わこく)の王「帥升(すいしょう)」は弥生時代、吉野ケ里のクニの王だったとする説を、佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長が発表した。邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)よりも100年以上前の時代の王で、邪馬台国九州説を裏付ける意味もあり、長年の論争に新たな一石を投じそうだ。 新説は新たに発刊された「上峰町史」に掲載した。七田館長は根拠として、吉野ケ里周辺に残る地名や、出土した中国鏡の存在などを挙げている。 「後漢書」には「倭面土(わめと)国王帥升」は西暦107(永初元)年、後漢の第6代皇帝・安帝(あんてい)に対して160人を献上し、謁見(えっけん)を願い出たと記されている。 「面土(めと)」(面土国)の位置には諸説あるが、七田館長は古墳時代の行政区分に用いられた「米多(めた)」に通じるとして、現在の上峰町米多(めた)や、吉野ケ里の「目達原(めたばる)」に引き継