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【敗者烈伝】北条氏政(下) 環境激変…手堅さが仇に 作家・伊東潤(1/4ページ)
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【敗者烈伝】北条氏政(下) 環境激変…手堅さが仇に 作家・伊東潤(1/4ページ)
上杉謙信を関東から駆逐し、40年余にわたって抗争を続けた里見氏と和睦し、さらに御館(おたて)の乱... 上杉謙信を関東から駆逐し、40年余にわたって抗争を続けた里見氏と和睦し、さらに御館(おたて)の乱後の苦境を巧妙な外交策で乗り切り、武田氏滅亡の一端を担ったのだから、ここまでの北条氏政の仕事は称賛に値する。 天正10(1582)年6月、織田信長が本能寺に斃(たお)れることで、再び時代の風向きが変わる。この機に上野国奪還を期した氏政は、織田氏の関東総奉行である滝川一益と一戦に及び、これを撃破した。神流川(かんながわ)合戦である。これにより関東から織田勢力を駆逐した北条氏は、信濃・甲斐両国の領有を策す。信濃北部には上杉景勝、甲斐には徳川家康も侵入し、3者間で武田旧領争奪戦が繰り広げられることになった。 しかし上野国の一部を領有する真田昌幸の裏切りによって、北条氏の作戦は齟齬(そご)を来し、結局、甲信の地を家康に差し出す代わりに、上野国の領有を認めてもらうことになった(天正壬午(じんご)の乱)。い