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【静岡 古城をゆく】高遠城(長野県伊那市高遠町) 峻険な地形 武田氏の支配拠点
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【静岡 古城をゆく】高遠城(長野県伊那市高遠町) 峻険な地形 武田氏の支配拠点
信州伊那谷は、諏訪とともに長野県の南信地域に当たる。天文14(1545)年、武田信玄はこの地に侵... 信州伊那谷は、諏訪とともに長野県の南信地域に当たる。天文14(1545)年、武田信玄はこの地に侵攻。領主の高遠(諏訪)頼継を討ち、同16年に高遠城を築いた。その縄張りは山本勘助によるもので、本城曲輪(くるわ)を二の曲輪、三の曲輪が取り囲む半円輪郭式の典型的な武田系城郭である。 三峰川と藤沢川が合流する峻険な地形に築かれた丘城で、武田氏が伊那地方を支配する拠点となった。 この城をめぐる歴史で悲惨を極めたのが武田氏滅亡期の天正10(1582)年に行われた織田信長による武田氏攻めだ。この時の城主は、武田勝頼弟の仁科五郎盛信。信長の子、織田信忠が総大将となり5万の軍勢が押し寄せ、3千の城兵は玉砕覚悟で戦ったがわずか1日で落城し、盛信ら武田方の多くが討ち取られたという。 この時、信忠が本陣とした「一夜の城」が高遠城から西に6キロ行った同県伊那市富県(とみがた)で4年前に発見され、話題となった。一夜の