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森永紅茶とその歴史的なつながり 「森永って、昔紅茶を作ってたんだね」と言われて、反応できる人はどれ... 森永紅茶とその歴史的なつながり 「森永って、昔紅茶を作ってたんだね」と言われて、反応できる人はどれだけいるだろうか。あの森永製菓は戦前洋菓子に合わせるために紅茶を作り始め、そして1971年の紅茶自由化政策で国産紅茶が実質的に終焉するまで戦前戦後を跨いで約50年間、紅茶を作っていたという事実を知る人は、今はほぼいない。 森永で菓子に合う飲料製造を指示したのは、創業者森永太一郎だった。最初は宇治のほうじ茶を売り出したが、1930年代洋菓子用として紅茶が検討された。当時は既に三井が台湾で日東紅茶を生産しており、森永も台湾で紅茶原料の供給先を探した。そして辿り着いたのが、中部魚池でアッサム種紅茶を作っていた持木農場だった。 持木農場の創業者、持木壮造は台湾が日本領となってすぐに渡台し、製糖業などで基盤を固め、1925年頃総督府の委託を受け、インドから導入したアッサム種を使い、中部で紅茶生産を始めた