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球史に残る“非情のジャッジ” サヨナラボークで消えたウイニングボール | 東スポWEB
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球史に残る“非情のジャッジ” サヨナラボークで消えたウイニングボール | 東スポWEB
【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(16)】「サヨナラボークの審判」といえば、その名を... 【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(16)】「サヨナラボークの審判」といえば、その名を聞いたことがある人もいるのではないか。日本リトルリーグの祖として野球殿堂入りを果たした林和男氏を父に持ち、自身もまたアマ野球界で長く審判を務めた林清一氏(60)に、球史に残る“非情のジャッジ”を振り返ってもらった。 林の名が広く世間に知れ渡ったのは1998年夏の甲子園。すでに審判歴12年目、甲子園7度とベテランの林は、2回戦の豊田大谷―宇部商戦での異様な盛り上がりを記憶している。 「第2試合に(現ソフトバンクの)松坂と(現巨人の)杉内の投げ合いが控えていて。確か発表では4万9000人だったと思うけど、実際は5万人以上が観戦に訪れていた」 灼熱の炎天下に球場全体を取り囲む人の壁。2―2で迎えた延長15回裏、無死満塁のピンチにマウンド上の宇部商・藤田修平(当時2年生)は明らかに疲弊していた。そしてそ