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早稲田という病 - 1 - SpiritualBolshevik
早稲田という病 - 1 InternetArchiveより再録 革マル派の襲撃に逃げまどう学生(早稲田大) 内ゲバ前史 ... 早稲田という病 - 1 InternetArchiveより再録 革マル派の襲撃に逃げまどう学生(早稲田大) 内ゲバ前史 戦後、革命党といえば日本共産党だけという状況だった。帝国主義の中で共産主義国家を守ったスターリンの下、ソビエト連邦が 世界の共産主義者の総本山として君臨していた。 ところが1955年六全協決議で、共産党中央がそれまでの武装闘争を自己批判。1956年フルシチョフのスターリン批判とハ ンガリー暴動でその信仰にひびが入った。 日共 六全協 - 1955 その動きの中で、共産党が依然スターリンを「間違いはだれにもある」と部分否定するのみで、ソ連の現状を肯定するのに対して、スターリン批判(一国社会主義批判や、ハンガリーに見られた ソ連の帝国主義への批判)するものが共産党から離れ、新左翼を形成していく。 その中で、一貫してスターリンを批判し、スターリンに殺されたトロツキーを再評価する
2008/10/27 リンク