エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
長髄彦の後裔とその奉斎神社
1 神武の大和侵攻に抗して敗れた「長髄彦」については、有害な偽書『東日流外三郡誌』などの影響もあ... 1 神武の大和侵攻に抗して敗れた「長髄彦」については、有害な偽書『東日流外三郡誌』などの影響もあってか、日本列島の原住民の流れとか様々な誤解が横行している模様であるが、神武天皇創基の大和朝廷に先立つ「原大和国家」における有力族長としての地位(ないし君主的な地位)にあったとみられる。たんなる「賊魁」とはいえないことに十分留意したいが、その人物像と族裔については、既に宝賀会長が著書『「神武東征」の原像』で描いているので、周辺関係者や当時の時代環境などを含めての詳細は同書をご覧いただくこととして、そのなかから本件に関係する二点の概要を紹介する。 長髄彦は、登美の那賀須泥毘古、登美毘古(『記』)とも記される。「長髄」とは、神武即位前紀にも記すように、その居住する「邑の本の号」であり、これを以て人の名としたものである。神武のイワレヒコ(磐余彦)と同様に、ある地域の首長・君長としての呼称であり、髄(脛