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井伏が朗読する「山椒魚」、飄々と戯れる絶望 島田雅彦:朝日新聞デジタル
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井伏が朗読する「山椒魚」、飄々と戯れる絶望 島田雅彦:朝日新聞デジタル
説話や寓話(ぐうわ)は記憶に残りやすい。神話や諺(ことわざ)が長年に渡り、個々の経験との擦り合わ... 説話や寓話(ぐうわ)は記憶に残りやすい。神話や諺(ことわざ)が長年に渡り、個々の経験との擦り合わせが行われ、身体的な記憶として強化されるのと似た効果があるのだろう。芥川は説話を近代化し、安吾はファルスを文学のふるさとと見做(みな)し、太宰はお伽草子のリサイクルを行ったが、文学が原点回帰を志向すれば、その淵源(えんげん)的形式である説話や寓話に似てくるのである。井伏鱒二の『山椒魚(さんしょううお)』は『雨月物語』の鯉(こい)になった和尚の話と同様、読む者の身体感覚に直接訴えてくるリアリティゆえ、高校時代に現代国語の教科書で読んだ記憶が消えずに残っている。寓話の教訓的要素は後知恵で追加されたものに過ぎない。むしろ寓話は消化し切れないわだかまりを読む者に植え付けるからこそ、時代を超えて残るのだ。 井伏は尻切れトンボの感のあるラストについて、愚行から孤独、さらに諦観(ていかん)に向かうところまでは