エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
日蓮(1222-1282)
それは建長5年(1253)4月28日の朝でした。 比叡山で修行を積んだ32歳の僧・蓮長が清澄山旭ヶ森で日が昇る... それは建長5年(1253)4月28日の朝でした。 比叡山で修行を積んだ32歳の僧・蓮長が清澄山旭ヶ森で日が昇るのを待っていました。そして海の向こうにご来光が射して来た時、僧は大きな声で10回唱えました。 『南無妙法蓮華経』 と。 後に「日蓮」と名乗り歴史に大きく名前を残す大聖人(*1)の立教の瞬間でした。 蓮長はその日の正午、清澄寺の持仏堂の南面でごく少数の人を相手に説法を始めます。仏の教えの真髄は法華経にある。他の経は法華経を説くための方便に過ぎない。法華経に絶対帰依して「南無妙法蓮華経」と誰もが題目を唱えることにより、この世界が常寂光土になるのだ。 それはこの世ならぬ西方浄土に救いを求める浄土教・個人単位に悟りを目指す禅宗に対して、現世をこそ救うべきである、という若き日蓮の激しい信念が燃え始めようとする瞬間でもありました。 日蓮は承久4年(1222)2月16日に安房の国に漁師の子として