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明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(上)=薩長討幕の恥部を知る|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして
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明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(上)=薩長討幕の恥部を知る|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして
幕末の広島藩は薩長芸の軍事同盟を結び、大政奉還で倒幕の中心的な存在だった。なぜ明治以降の歴史から... 幕末の広島藩は薩長芸の軍事同盟を結び、大政奉還で倒幕の中心的な存在だった。なぜ明治以降の歴史から消えてしまったのか 長州藩は四か国連合艦隊と戦って下関まで占領される、さらに幕府の長州征長で、疲弊し、倒幕への力はなかった。薩摩も同様にイギリスと戦っている。島津家は徳川将軍に正室を出している、身内なのだ。薩摩藩の重役には徳川家を倒す意志などなかった 芸州・広島藩は第二次長州征討において出兵拒否をした。戦争に対して無傷だったから、軍事力は温存されていた。だから、薩長芸軍事同盟の中心的な動きができた。もう一つには、経済面である。 広島藩は大崎下島・御手洗港で、薩摩藩と密貿易で深く結びついていた。諸外国と結ばれた通商条約では、開港が下田、函館、長崎などに限定されている。 (スエズ運河の完成が1869年だから、欧米の蒸気船は瀬戸内の海峡など楽に航行できる) 広島・宮島港では長州藩と交易する。広島藩の船