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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして
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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして
広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜... 広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。 (西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう 他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。 司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。 果たしてそうだろうか。 司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。 司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過