タグ

吉本隆明に関するfunaki_naotoのブックマーク (81)

  • [書評]吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜(吉本隆明,・糸井重里): 極東ブログ

    今日、NHK教育で22:00~23:29に、ETV特集「吉隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(参照)が放映される。いちおう録画予約を入れた。リアルで見ることはないと思うし、予約がこけることもないと思うのだけど、そうだな、ワンセグのほうでもダブルで予約入れておくかな。 戦後思想界の巨人と呼ばれ、日の言論界を長年リードしてきた吉隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。 吉さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。 とういこと。 かなりたぶん、この講演のころ出版された「吉隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜(吉隆明,・糸井重里)」

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/01/05
    「その人がどのような恋愛的な情熱と罪を意識を隠蔽して生きているのか/アンビバレンツ/歴史というのは、知ではなく、非・知の側から揺り動く。その言葉にならないものが言葉になろうとしているあり方」
  • これね - finalventの日記

    ⇒吉隆明とフーコー で⇒はてなブックマーク - 吉隆明とフーコー narima001 増田, 批評 ばななのパパ涙目。 2009/01/03 ある意味ではそうなんだけど。つまり、「吉さんはヘーゲルをドイツ語できちんと読んでいるのか?」なのだけどね。ただ、吉のマルクス関連をフランス語にきちんと訳せたらそれはそれで違ったものになったかもしれない。 橋爪大三郎がレビ=ストロースを個人訳して吉に送りそれから橋爪は構造主義と吉を追っているし、それからその関連だったか、共同幻想論には仏訳があるのだが、読まれていない。吉があの時代のフランス思想をどう受け止めたかは「情況」の側を見るほうがよいのだけど、それなりに普通のおフランス哲学解説者くらいには理解している。 まあ、吉の頭の悪さを弁護するわけではないんだけど、なにかもどかしい問題というのがあって、橋爪は気が付いているし、蓮実も気が付いて

    これね - finalventの日記
  • ほぼ日刊イトイ新聞 -吉本隆明・まかないめし。

    思想界の巨人とか言われていたって、世間話もするし、 「ただのおとうちゃん」として暮らしている時間がある。 ぼくはそっちの時間の吉さんの話ばかり聞いているんで、 まかないめしで栄養をつけてきたようなものだ。 吉隆明さんとは15年以上にもわたって、 しょっちゅうお会いしているのに、 ほとんど世間話しかしていないような気がする。 それでも、「世間」というものも大きいわけで、 詩やら文芸批評やら哲学、なんていうような話題が どうしても混じり込んでしまうものだ。 たまに、じぶんより若い人と話をしているときに、 「そういえば、そういうことについて、 吉さんがこんなこと言ってたっけなぁ」と、 思い出したことを話すと、 「思想家・吉隆明」を知らない人たちが、妙に感心する。 ぼくは、いわゆる吉信者でも隆明ファンでもないけれど、 (だいたいぼくには、<吉>は難しかったよ)、 近所の尊敬できる年長

  • 吉本隆明 三好春樹「の現在進行形 介護の職人(PT)、吉本隆明に会いにいく」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    春秋社 2000年10月 最近、必要あってリハビリ関連のを少し読んでいる。このはだいぶ以前に読んだものであるが、それで思い出して、引っぱりだしてきて読みかえしてみた。三好氏は作業療法士(PT)であるが、リハビリの専門家というよりも老人介護問題の専門家として知られているのではないかと思う。その「介護覚え書 老人の事・排泄・入浴ケア」(医学書院 1992年)はとても面白いで、看護師さんに「ぜひ読んでごらん」と薦めるのだけれど、なかなか読んでくれない。たまに読んでくれてもあまりぴんとこないらしい。どうしてだろう。看護ということをこれほど考えさせてくれるもないと思うのだが・・。まあ、散々、看護の現場の悪口を書いているのだから仕方がないかもしれないけれど。 書は当時75歳の吉氏と老人問題の専門家?の三好氏が〈老い〉の問題について様々に語ったである。そこでのいくつかの話題をひろって感想

    吉本隆明 三好春樹「の現在進行形 介護の職人(PT)、吉本隆明に会いにいく」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 吉本隆明シンパの私としては - finalventの日記

    はてなブックマーク - 『サンデー毎日』9月3日号 それを読んでないのでなんともいえないが、吉翁らしいなとは思った。 アンパンマンさんらとは話がどうにも通じないので無用な軋轢はさけたいと思うのだが、率直に言って、たまたまぶくま経由で見たsynonymousさんの意見が、へぇ、と思った。批判ではないが、ちょっと。 2006年08月26日 synonymous 所詮戦場を知らぬ吉ではあった。 また対応エントリコメント欄に。 そんな吉に頼らなければ、左翼から身を守れなかった人たちがいた時代ってのもあったわけですね。 synonymous | 08.26.06 - 1:39 pm | # synonymousさんが、吉を「所詮戦場を知らぬ」とそのまま理解されているのだろうか。 この問題は、私は「戦場をよく知っていた」山七平と「所詮戦場を知らぬ」吉隆明の図としてときおり考えることがある

    吉本隆明シンパの私としては - finalventの日記
  • 今日の一冊 「地図のない道」須賀敦子 - finalventの日記

    福岡伸一さんの私の1冊「地図のない道」須賀敦子 | NHK 私の1冊 日の100冊 地図のない道 (新潮文庫): 須賀 敦子: Amazon.co.jp たぶん、須賀敦子と福岡伸一を出すための企画だったのではないか。 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891): 福岡 伸一 このはざっと読んだが、トンデモ?とも思った。そういえば、「もう牛をべても安心か (文春新書): 福岡 伸一: Amazon.co.jp: 」もそう思った。ただ、これこれだからトンデモですなというにはめんどくさいなとも思った。「生物と無生物」の帯の推薦者が面白いので画像を大きめにしておこう。最初からそういう趣向だったのかな。 こういうとまたぞろ悪口みたいだが、須賀敦子も福岡伸一も編集者好みの著述家だ。ついでにいうと、模擬先生も内樹先生もそうだ。こちらはなにより他作で安定して捌けるのがうれしい。 福岡伸一

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/11/15
    「編集者好みの著述家/福岡が須賀に心惹かれるのは信仰の部分だ/本が好きなら編集者にはならないことだと気が付くとき、その業からはもう出ることはできない」
  • [書評]永遠の吉本隆明(橋爪大三郎): 極東ブログ

    である。終わり。で済む程度の内容なので、それ以上の言及など不要なようだが、橋爪大三郎がこんなみっともないを出してしまう理由もわからないではないし、橋爪人も気が付いてもいないだろうが、この世代の老いを知るという点でも、身銭を切って買って読んでみた。 タイトル「永遠の吉隆明」はくだらなすぎるが橋爪が付けたものではないだろう。内容も書かれたものではなく、おしゃべりの書き起こし。新潮の「バカの壁」の影響の破壊性はこんなところまで及んだ。四時間ほどのおしゃべりと編集者がいたら新書はできる。福田和也と香山リカと並べてしゃべらせれば一冊、あがり。編集者に魂というものが無くなった。山夏彦は、ってなものにはいくばくか魂がくっついてくるものだと言った。だが、それをなくしたらこういう事態になった。この手の駄をやり手婆みたいな斉藤美奈子がくさしたり、宮崎哲弥のような流しの評論家がチャートを作れけば

  • 吉本隆明に教わったことは多いが - finalventの日記

    その一つは、人はただ生きているということか。そういうふうな表現ではなかったが。 これを読んで思い出した。 これ⇒黒崎夜話: 高い空 黒崎さんのエントリ構造がわからないので、あんこの部分は別の引用なのかもしれないが。 また、黒崎さんにはプロの意識があるようだが。 吉に戻る。 私が吉隆明のを読み出したのは、院を出てからの1983年ごろだ。今思うとネットの黎明期でもあった。 以前にも書いたが私は恩師?のつてで反核署名集めのパシリをしていた。ダイインとかにはさすがに行かなかった。なんとも言えない違和感だけがあり、たった一人取り残され、放り出され、いろいろ考えたなかで、この、「反核」異論、に出会った。 それから手に入る吉はかたっぱしから読んだ。 ネットで知り合った年上の人から吉の話もいろいろ聞いた。 戦後史の書かれない部分がうっすら見えてきた。 吉はこのの後書きで、当に書きたい

    吉本隆明に教わったことは多いが - finalventの日記
  • 吉本隆明、1982、「<反核>異論」: muse-A-muse 2nd

    違和感というのは小熊では吉をして戦争の影響で教養をつめなかったはねっ返り世代(前の世代へのクレーマー)的にまとめていたような印象があったんだけどそれだけでもないんじゃないかなぁ、と。 吉の一個前の世代というと丸山真男辺りが代表的なものになるのだろうけど、丸山真男などが「社会的コミットによって正しさを再構築する」ってちょっとガチガチな感じで行っちゃったのに対して、「社会ってのは"正しさ”だけじゃないんだぜ?」的なオルタナとなったのが吉たちだったんじゃないかなぁと思って。 「社会」というか「大衆」への視線といったほうがいいか。 正しさのフィクション - 論理的、理性的につめていくと「正しさ」的に硬直したりタテマエ-教条的になるところがあるけどそゆの回避して嗅覚でホンネみつけてくるっていうか。 大衆への視線ということだと鶴見も含まれるのだろうけど鶴見が(ハイカルチャー的なものに対する)大

  • 対幻想と正義: 極東ブログ

    自動回転ドア事件の関連でちょっと暴言を吐いた。無意識に対幻想を基軸とした自分の考えが露出した。暴言だからなというのはある。通じると思っていたわけでもないが、それがほぼ無内容に響く世代があることは知らず、自分が不覚に思えた。俺はヤキが回っているぜと気で思った。そして、対幻想についてぼんやりと考えた。そして考えるほどに、対幻想のありかたがまるで変わっているのだとしか思えないことに、気が付く。 対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。 駄だなと思った橋爪太三郎「永遠の吉隆明」を昨日ぱらっとめくりながら、いろいろ思った。駄は駄なのだが、こういうことを言う状況の必要性というものはあるのだろう。ただ、このは、イントロダクションとしてはあまりいいではない。そして、率直に言えば

  • 麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想: 極東ブログ

    今朝は日経新聞社説「ロシアの強権政治を案じる」が良かった。考えようによってはなんてことない話なのかもしれないが、私はこの問題は日の今後にも関わってくるだろうと思う。当面の事態は表面的にはウォロシン大統領府長官の解任だが、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長の逮捕に関連している。問題は背景にあるロシア政治だ。と書きながら、この話題は今朝は割愛する。 今朝はどうしても麻原裁判結審への言及を避けるわけにはいかない。範疇は時事を避けて歴史とした。歴史の問題ではないが、時事でも社会の問題でもないので便宜的なものだ。 麻原裁判結審で意外にも思えたのだが、社説で扱っていたのは読売と産経だけだった。朝日と毎日は避けているという印象を受ける。当然、この問題について悪しきポピュリズムを越えられない読売と産経だから社説には読むべき内容もない。今さら麻原を悪だと言い立ててもサマにならないので、国

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/10/08
    「死を実存の側から見るのではなく、実存をたらしめる根元の側から問いなおされる必要」
  • 幻想論メモ - finalventの日記

    死後の世界を信じてますかとか仮に聞かれたとして。 答えは決まっていて、信じてない、です。 のっけから余談だけど、左翼とかの人がけっこう、死後の世界とか死後の生命みたいのを信じているので不思議だなと思うことが多い。さらについでにいうと、靖国とか新興宗教なんで私はまるで関心ないし、信じてない。英霊って修辞ではあっても存在しませんよ。左翼も右翼も霊の信仰者というのが面白い。 で。 それはそれとして、人の心の構造というか、意識の構造というのを、独我論的に突き詰めていくと、あるいは意識現象として突き詰めていくと、輪廻転生とか死後の生命とか死後の意識とか、そんなものがどうもありそうだ。 関連⇒「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス(三浦俊彦)」読んだよ - finalventの日記 ありそうだというのは、客観的にあるというのじゃなくて、人の心の仕組みとしてありそうだ。 で、そういうのが自分にあるかと

    幻想論メモ - finalventの日記
  • 糸井重里編集構成「吉本隆明の声と言葉。その講演を立ち聞きする74分」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    東京糸井重里事務所 2008年7月 糸井重里氏と氏が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」が、吉隆明氏の膨大な講演の音源をCD化して発売した(「吉隆明 五十度の講演」。170回分くらい残されている講演の音源から50回を選んでCDにしたもので、CDが100枚を優に超える大変なヴォリュームのものである。価格も5万円と、なかなかのものとなっている。 興味深いのは、このCD集に収載された講演をいづれは無料でダウンロードできるようにしていく方針であることが明記されていることで、現在5万円のものがいづれ無料で入手できるとわかっている場合、それを購入するひとがどのくらいいるかというのは、インターネットという媒体のもつ可能性についての、また書物という古くからの形態、CDというやや新しい形態がそれぞれもつメリットとデメリットについての、意味ある実験であると思う。 書(CD?)は、そのCD集「五十度の講演」の

    糸井重里編集構成「吉本隆明の声と言葉。その講演を立ち聞きする74分」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 「ほぼ日」は、吉本隆明の思想の実践だった:日経ビジネスオンライン

    (前回から読む) ――今回の糸井さんによる吉隆明プロジェクトでは、講演アーカイブ「吉隆明 五十度の講演」を数量限定で発売し、それを売り切ったら、音源をネット上で公開すると計画されています。 糸井 いわば吉隆明のリナックス化です。 ――それはどう発想されたのでしょうか。 糸井 思い付いちゃったんですよ(笑)。第1回で言ったように、どこかに豊かなため池があります、という状態があっても、ある仕組みを整えないと、人はそこの水を最大限には利用できないんですよ。せいぜいが防火用水になったり、あとは近所の人が水田に引いたり、で終わり。すると、そのうちに池の水そのものが腐っていくんですね。このため池が講演テープの音源だと思ってください。 ――糸井さんの許には吉さんの過去の講演の音源が170集まったとか。 糸井 弓立社の宮下和夫さんという編集者の方が数十年にわたって集めてこられた音源なんです。その

    「ほぼ日」は、吉本隆明の思想の実践だった:日経ビジネスオンライン
  • 吉本隆明は「人を助ける」ミネラルである:日経ビジネスオンライン

    団塊世代からは異論もあるかもしれない。だが、思想家、吉隆明(よしもと・たかあき)という名前に、特別の思い入れを感じない人のほうがもう多い時代、だろう。 しかし「よしもとばななって、吉隆明の娘さんなんだよ、と言われても、それって誰? というような人が、今の僕にとって理想的な相手です」と、糸井重里氏は語る。 糸井氏が率いる「ほぼ日刊イトイ新聞」は、吉隆明の講演集CDブック『吉隆明の声と言葉。』を初め、数々のコンテンツを発売する。いま、彼の言葉を求めている人が多くいる、と糸井氏が確信している理由は何なのだろうか。 ――そもそも糸井さんが「吉隆明」と初めて出会ったのはいつだったのでしょうか。 糸井 高校のときに読んだ『芸術的抵抗と挫折』だったと思います。といっても、当時の僕には分かりっこないですよね。高校生が田舎でぶらぶらしてるくせに、どこに芸術的抵抗があって、どこに挫折があるんだよ、と

    吉本隆明は「人を助ける」ミネラルである:日経ビジネスオンライン
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ベルギーに行った 先日、ベルギーに行きました。 マグリットの絵とルーベンスの絵を見るのが目的。 あまり時間もなく、ブリュッセルとアントワープを駆け足気味で巡ることに。 ミュンヘンから車で10時間近くかかり、なんでこんな無茶をしてしまったのかとも思いましたが、ヨーロッパの方…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
  • 吉本隆明の「友だち」 - hsksnote

    小中高大、そして社会人と歳を重ねていくにつれ、人見知りの性格が災いして、友だちが出来にくくなり、友だちと遊ぶという機会がどんどん減っていった。 ものすごい残念で、なんで友だちが出来ないんだろうなあ、おれはダメだなあと思っていたのだけど、吉隆明の言葉を読んで、その気持ちが少し救われたことがある。 それは、『悪人正機』というで、吉隆明が「友だち」ってなんだ?というテーマで語った言葉。 まあ、青春期の入りかけの頃っていうのは、生涯の中で唯一、なんかあった時にはお互い助け合える関係の友だちができる可能性のある時期だと思うんですよ。その時期を逃したら、もう、ちょっと不可能だと思いますね。 吉隆明『悪人正機』「友だち」ってなんだ? P.38,39 実際、その時期の友だち関係をずっと持続できたら、文句なしで、それは当に当にたいしたもんなんです。なおかつ、そういう友だちがひとりでもふたりでもい

    吉本隆明の「友だち」 - hsksnote
  • 吉本隆明と西行のかな文字: 日本の美術・アジアの美術

  • 吉本隆明の自立の思想の今: 極東ブログ

    隆明のファンなら、あるいはかつてのファンでもそうだが、「自立の思想的拠点」(参照)を読んだことがあるだろう。全著作集の政治思想評論集にも含まれている。ここでの「自立」とは、昭和40年に「展望」に書かれたという時代背景を考えても、以下の冒頭を見ても、従来型の左翼思想からの自立を意味していたかに見える。 わたしたちはいま、たくさんの思想的な死語にかこまれて生きている。 〈プロレタリアート〉とか〈階級〉とかいう言葉は、すでにあまりつかわれなくなった。代りに〈社会主義体制と資主義体制の平和的共存〉とか〈核戦争反対〉とかいう言葉が流布されている。言葉が失われてゆく痛覚もなしにたどってゆくこの推移は、思想の風流化として古くからわが国の思想的伝統につきまとっている。けっして新しい事態などというものではない。当人たちもそれをよく知っていて、階級闘争と平和共存の課題の矛盾と同一性を発見するのだというよ

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/09/30
    「私ができることは、二つ、どんな悲惨になっても正確に見ていたい。正気でいたい、ということ。もう一つは、希望にかける人がいるならそれをできるだけ否定しないようにしようということ」
  •  25 吉本隆明 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    宮崎哲弥氏の「新書365冊」(朝日新書 2006年10月)を読んでいたら、橋爪大三郎氏の「永遠の吉隆明」(洋泉社新書y)を評した文があって、その冒頭に「昔、とある作家が、全共闘世代のことを「吉隆明ファンクラブ」と揶揄しているのをみて大笑したことがある」とあった。そして、その少し後で、吉氏の論考は、「時代や状況の文脈の最中において、はじめて躍動するテキスト群であって、まず、その文脈を丸ごと受け容れ、吉と問題意識を共有しないことには、そもそも「読めない」構造になっているのだ」といっている。 この文はそのまま小阪氏が全共闘運動についていいたいことにもあてはまるのではないかと思った。「全共闘運動というのは、それがおかれた時代や状況の文脈の中において、はじめて理解可能となりうるものである。まず、その時代を丸ごと受け容れてみてほしい。そして、わたくしと問題意識を共有してみてほしい。そうすれば、

     25 吉本隆明 - jmiyazaの日記(日々平安録2)