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2006年10月23日のブックマーク (13件)

  • 凸版印刷/印刷博物館 企画展『近代印刷のあけぼの―スタンホープと産業革命』を開催

    凸版印刷/印刷博物館 企画展『近代印刷のあけぼの―スタンホープと産業革命』を開催 機械は,人の手の代わりを果たすために生まれ,人の手になりかわって多くのものを生みだしてきた。 グーテンベルクによって発明されたとされる印刷機。その登場から,現在まで,さまざまな機械が活躍してきました。 企画展では,印刷の4要素と言われる「紙(被印刷物)」「版」「インキ」「圧」のなかでも,印刷になくてはならない「圧」を加える印刷機を中心に展開いたします。 印刷機はグーテンベルクがブドウ搾り機にヒントを得て作ったと言われています。そしてグーテンベルクによる印刷機は,約350年間の長きにわたって,ほとんどその姿を変えることなく,使用されてきました。そこに,スタンホーププレスという,総鉄製の印刷機が現れ,印刷機の姿が大きく変わっていくことになります。印刷の産業革命は,このスタンホーププレスによってはじ

  • 未公認なんですぅ: どこに付加価値をつけていけるだろう

    日経BPの「ITpro Enterprise」ページに、こんな記事が載っていた。 「情報はタダ」が若者の常識? 自分もインターネットを使いだして10年くらい経つし、その前はパソコン通信を使っていた。日ではあまり(ほとんど)情報の流通しない、マニアックなジャンルの音楽ファンということもあり、必要な情報、知りたい情報の多くは、以前からコンピュータ・ネットワークを通じて、その筋に詳しい人(会ったことのない人も、知人も含む)や、外国から得ていた。そうした情報は多くの場合、通信費を除けば無料で、そのおかげでいったいほど多くの情報を手に入れ、どれほど多くの未知なる音楽に出会えてこれたことだろう。 そしていまも、必要な情報はインターネットを通じ、無料で入手している。そういえば自分、もうずっと長いこと音楽雑誌を買ってない。そもそも日で売られている雑誌に自分が望む情報など載る可能性がほとんどないし、載っ

  • 未公認なんですぅ: 理由がうまく見つけられない

    全国梅雨明けしたそうで、これから暑苦しい夏がくるのかと考えただけでうんざりです(夏キライ)。高い気温と湿度がどんどんと体力・気力を奪っていき、すべてのことに対してヤル気が持てなくなる季節の到来だぁ。 うちらは商売としてをつくり販売しているわけですが、なぜそれが「」でなければいけないのかという理由を自分はうまく見つけられずにいます。 は、嫌いじゃありません。文章を読むのは好きなほうだと思います。でも、それが「」という媒体である必要は、少なくとも自分にとってはありません。たまたま「」でしか公表されていないから「」で読むだけで、もしそれがウェブ上で公表されているならパソコンで読んでもぜんぜんかまわないんです、自分の場合。 ディスプレイ上で文章を読むのは、紙面の文章を読むよりも疲れる、という方もいます。実際、そうだなとも思います。でも、もしかしたらそれって、たんに慣れの問題かもしれ

  • さるさる日記 - 備忘録

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かししてを読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…

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  • http://hpcgi1.nifty.com/hongming/komorebi/wforum.cgi?no=1060&mode=allread

  • 青空文庫...報告書

    校訂者の権利に関する報告 1997年12月17日 富田倫生 【概要】 世阿弥の著した『風姿花伝』を、青空文庫で公開することを前提に、テキスト入力したいという申し入れがあった。 提案者は、岩波文庫版の同書(青1―1)を底としようと考えていた。 世阿弥は1443年に没しており、著者に関して、著作権上の問題は生じない。 ただし岩波文庫版には、野上豊一郎と西尾実が校訂者として明示してあった。 この校訂者に独立の著作権が認められるとすれば、岩波文庫版を底として電子化、公開するためには権利所有者の同意が必要となる。同意が得られない場合、同書を底とすることは、両者の死後50年を経るまで、控えざるを得ない。 一方、校訂に著作権が認められないとすれば、岩波文庫版を底として入力したものを、すぐに公開できる。 岩波文庫版を底とした『風姿花伝』を、青空文庫で公開できるか否か判断するために、著作権法を検討

  •  25 吉本隆明 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    宮崎哲弥氏の「新書365冊」(朝日新書 2006年10月)を読んでいたら、橋爪大三郎氏の「永遠の吉隆明」(洋泉社新書y)を評した文があって、その冒頭に「昔、とある作家が、全共闘世代のことを「吉隆明ファンクラブ」と揶揄しているのをみて大笑したことがある」とあった。そして、その少し後で、吉氏の論考は、「時代や状況の文脈の最中において、はじめて躍動するテキスト群であって、まず、その文脈を丸ごと受け容れ、吉と問題意識を共有しないことには、そもそも「読めない」構造になっているのだ」といっている。 この文はそのまま小阪氏が全共闘運動についていいたいことにもあてはまるのではないかと思った。「全共闘運動というのは、それがおかれた時代や状況の文脈の中において、はじめて理解可能となりうるものである。まず、その時代を丸ごと受け容れてみてほしい。そして、わたくしと問題意識を共有してみてほしい。そうすれば、

     25 吉本隆明 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • http://www1.odn.ne.jp/~cal67130/jihi/

  • 2006-10-22

    空が明らむといふ新しい(と思はれる)語形には違和感がある、自分なら明るむだ、とのこと。(p42) 「腹をくくる」「どまんなか」は元は関西弁。(p52) 「あっけらかん」は元は茫然自失の状態。さらに古くは「手持ちぶさた」かも知れない(朱楽管江が手持ちぶさたなのでわれのみひとりあけら管江と書きつけたエピソード)。(p130) 「ある程度の」といふ程の意味で「一定の〜」と使ふが、文字通りには「不変の」といふ意味なので、一定の成果など、人によっては違和感を覚える。(p160) 辞書の客観主義と規範主義とを調和させる考へ方として、著者は辞書=かがみ論を唱へてゐる。辞書は社会のことばを映す鏡であると同時に各人の言語行動の鑑であると。そして、まず鏡であって次に鑑となりうることに注意を促してゐる。(p202) 続きを読む 昭和47〜53年の論文集。 これまで論述してきたように、〈正字〉には二つの意味用法が

    2006-10-22
  • 2006-10-22

    空が明らむといふ新しい(と思はれる)語形には違和感がある、自分なら明るむだ、とのこと。(p42) 「腹をくくる」「どまんなか」は元は関西弁。(p52) 「あっけらかん」は元は茫然自失の状態。さらに古くは「手持ちぶさた」かも知れない(朱楽管江が手持ちぶさたなのでわれのみひとりあけら管江と書きつけたエピソード)。(p130) 「ある程度の」といふ程の意味で「一定の〜」と使ふが、文字通りには「不変の」といふ意味なので、一定の成果など、人によっては違和感を覚える。(p160) 辞書の客観主義と規範主義とを調和させる考へ方として、著者は辞書=かがみ論を唱へてゐる。辞書は社会のことばを映す鏡であると同時に各人の言語行動の鑑であると。そして、まず鏡であって次に鑑となりうることに注意を促してゐる。(p202) 続きを読む 昭和47〜53年の論文集。 これまで論述してきたように、〈正字〉には二つの意味用法が

    2006-10-22
  • 「国語」とは何か?

    「国語」とは何か? 世界には、一体いくつの言語があるのだろうか? 一般に約3500と言われるが、この数は数え方によって大きく異なってくる。言語の違いなのか、方言の違いなのかが判然としないことが多いからである。会話がおおむね通じるなら方言差という基準も立てうるが、それではほとんど会話の通じない津軽弁と鹿児島弁とは別の言語ということになってしまう。世界一話し手の多い言語は中国語だと言われるが、実はこの中には北京語、上海語、福建語、広東語、客家語といったさまざまな言語が存在し、たがいの会話は成り立たない。かと思うと、会話の十分通じる言語が別の言語とされる例も多い。旧ソ連から独立したモルドバという国がある。そこの言語はモルドバ語とよばれる。しかし、この言語は、実は隣接のルーマニア語とはほぼ同じ言語だといってよい。にもかかわらず、別の言語とされるのは、別々の国家内で話されているからである。ボスニア

  • http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11146/enku2002/