言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密故郷・朧月夜・早春賦…名作唱歌をつくった最重要人物がついに証言 …もし吉丸一昌に会えたなら、こんな感じの会話かな、と考えてつづっていきます。 すべて事実に基づくフィクションです。 唱歌や童謡に関するWEBサイトにある俗説や間違いも正していきます。
言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密故郷・朧月夜・早春賦…名作唱歌をつくった最重要人物がついに証言 …もし吉丸一昌に会えたなら、こんな感じの会話かな、と考えてつづっていきます。 すべて事実に基づくフィクションです。 唱歌や童謡に関するWEBサイトにある俗説や間違いも正していきます。
東京大学附属図書館アジア研究図書館 上廣倫理財団寄付研究部門 Uehiro Project for the Asian Research Library U-PARL特任研究員 荒木達雄 2021年4月5日、高島俊男さんが亡くなった。享年85(高島さんは年齢には数え年を用いる主義であったのでここでも数え年で記します)。1937年大阪のお生れ(学年は1936年度)、相生で国民学校(5年生から新制の小学校)、中学校時代を過ごし、県立姫路東高校を経て東京大学に入学。経済学部を卒業し、銀行勤務ののち、東京大学に戻り、文学部で中国文学を専攻、そのまま大学院へ進んだ。僭越ながら筆者から見ての大先輩に当たる。のち、東京大学文学部助手を経て岡山大学法文学部助教授。その後は大学に所属せず(愛知大学非常勤講師などを務めた時期はあるものの)、文筆、講演活動を行っていた。 筆者は高校生のころ『水滸伝の世界』(大修
言葉をめぐる人気エッセー「お言葉ですが…」シリーズで知られるエッセイストで中国文学者の高島俊男(たかしま・としお)さんが5日、心不全のため死去した。84歳。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妹、森沢敦子(もりさわ・あつこ)さん。 兵庫県相生市出身。東京大大学院で中国文学を専攻、岡山大助教授などを経てフリーの文筆家に。中国文学や、その影響を受けた日本語や日本文学についての深い学識を背景に、大手出版社や新聞、学界の権威の誤りを批判する軽妙なエッセーが好評を博し、「週刊文春」に平成7年から18年まで連載した「お言葉ですが…」は、全18巻におよぶ人気シリーズとなった。 7年、「本が好き、悪口言うのはもっと好き」で講談社エッセイ賞受賞。13年、「漱石の夏やすみ」で読売文学賞随筆・紀行賞。他の主な著作に、「中国の大盗賊・完全版」「漢字と日本人」など。
タイトルで、既に話の流れが分かる人は分かるのだろうが、トリックは途中で言わないように(笑) えーと少し前、このへんの話が話題を読んで…検索 百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170406-00000001-pseven-cn さすが本屋大賞受賞者、はてブも大にぎわい。 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170406-00000001-pseven-cn さて、自分は得たりとばかり、とある資料を紹介したい・・・・・と思ったら資料樹海に迷い込んで、本日ようやく入手した。そしたら祭りは終わった気配だ。 しかし、或る意味ニセ救世主や、ニセ皇帝の陳勝
中国文学者の高島俊男さん(80)による、古今の言葉をテーマにした名エッセー『お言葉ですが…』。その最終巻『お言葉ですが…別巻(7) 本はおもしろければよい』(連合出版)が刊行された。全18巻、22年に及ぶシリーズの完結巻となる。 同エッセーは、「週刊文春」で平成7年から18年まで連載。単行本は文芸春秋から10巻までが出版された。その後、版元を連合出版に移して週刊誌連載時の未収録分を収めた「11巻」を刊行。20年からは同社で、書き下ろしエッセーやさまざまな新聞雑誌に執筆した文章を集めた「別巻」シリーズが始まった。 連合出版は「筆者の高齢もあり書籍としてはこれが最終巻になるが、今後は弊社運営の専用ブログ(http://okotobasaishin.blog.fc2.com/)で随時高島さんの書くものを掲載していく」と話している。 日頃何げなく使う言葉の意外な由来やみっともない誤用について、たい
eoblogは 2017年3月31日(金)15:00 をもってサービスを終了いたしました。 長年にわたりご愛顧いただき誠にありがとうございました。
とてもおすすめ! 漢字と日本人 高島俊男 H13 文藝春秋 内容、カバー折口より 「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえの ようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこの ような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。 感想 日本語において本来外来語である「漢字」つかうということはどういうことなのか、そしてそこにはどんな問題が生じるのか、喝破した本。 私たちは言語から無意識に受ける作用のなかで日々学習し、思考している。 私たちが使用している日本語の一面を、本書は明らかにしており、自ら(日本語話者)の立ち位置を理解する
はじめに 「漢字(支那文字)はそもそも和語にぴったりと合致するものではないが、今では書かれた文字すなわち〈漢字〉がすべての前提として機能しているのであるから、それを唾棄するのではなく、共存していかなければならない」 以上が高島俊男『漢字と日本人』の核心であると私には思われる。日本語における漢字の役割を考える際に、このように複雑な実態があらわれてくるというのが高島氏の主張である。私たちが使用している「漢字」について、高島氏の文章を辿りながら考察することが本稿の目的である。 漢字の加工 日本人は漢字を自らの言語に組み込むと同時に和語に漢字を当て、また漢字から「かな」を作った。以下、そのことを確認する。 言語はそれが指し示す物質や概念と不可分のものである。日本にはもともと、「文字」は存在しなかった。中国から「漢字」が流入した際、日本には存在しないような物質や概念を指す言葉も一緒に入ってきたため、
諸般の事情により、ブログ「お言葉ですが…最新版」を終了いたします。ご愛読ありがとうございました。 (管理者) 終了にあたり、先に収録しました「嗚呼、大ヶ瀬幹人先生」――2018年11月 (1,2)、2018年12月(3,4)――の後編を一挙掲載いたします(5~10)。左の「月別アーカイブ」2020/6の7篇をご覧ください。 なお、これまでのブログ掲載分は一括して連合出版のホームページでご覧になれます。 大ヶ瀬先生について語ることは、少なくともわたしにとっては、自分について語ることだ。ちょうど、母について語ることがそうであるように。また、本について語ることがそうであるように。 昭和二十七年三月にわたしたちは那波中を卒業した。 わたしは答辞を読むように言われ、いかに大ヶ瀬先生の命令でもこれだけは絶対にイヤだと頑張って、先生を困らせた。 これは一年前の送辞で懲りたからである。 当時は西本先生の
○高島俊男『司馬さんの見た中国』(お言葉ですが…別巻6) 連合出版 2014.6 高島さんの「お言葉ですが」は週刊文春の名物連載エッセイだったが、単行本11巻を以て終了し、『正論』『東方』『中国研究』ほか、さまざまな雑誌に寄稿したエッセイを集めて、別巻シリーズがすでに6巻まで出版されているらしい。タイトルの「司馬さんの見た中国」は、たまたま冒頭を飾る一編が『文藝春秋』(2013年3月)に掲載された特集記事「司馬遼太郎の見たアジア」について書かれていることにちなんだもので、全巻を通して、司馬遼太郎の中国観について語った書物ではない。 こういうタイトルの付け方はどうなんだろう。なんとなく、司馬遼太郎ファンのそそっかしい読者が購入することを期待している下心(編集者の)が透けて見えるようで、私はあまり好きじゃない。文庫本の「解説」のありかた、「○○編」という責任表示の意味など、いまどきの本づくりに
中国文学者の高島俊男氏による漢字論。軽妙な調子で日本語と漢字の「腐れ縁」を語った名著です。 筆者の中核的メッセージは、「あとがき」にわずか一文でまとめられています。 わたしの考えは、まず第一に、漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりこないのであるが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない、ということ、第二に、われわれのよって立つところは過去の秘本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである。 一見すると「伝統礼賛」のようですが、まったく異なります。 「漢字は日本の伝統、素晴らしい、守らないといけない!」といったナイーヴな論を時々見かけますが、高島氏の仰ることはこれとは違って、「基本的に漢字は漢語(いわゆる中国語)のためのもので、あらゆる点で漢語を
たかしま としお/1937年生まれ。中国文学者。東京大学大学院修了。91年に『水滸伝と日本人』を発表。95年から2006年まで「週刊文春」で人気連載「お言葉ですが……」を執筆。著書に『本が好き、悪口言うのはもっと好き』『漱石の夏やすみ』などがある。 この著者の関連記事 「正書法」とは、ある語の正しい書きかた、ということである。 たとえば英語には正書法がある。夜はnightと書く。niteとかnaitと書いたらまちがいである。必ずnightでなければならない。 日本語には正書法はない。たとえばわたしは上に「書きかた」と書いた。「ほう」と「かた」はかな書きすることにしている。この本の著者は「書き方」と書いている。あるいは「かきかた」の人もあろう。どれが正しいということはない。自由である。 だから「正書法」という語自体が、日本語にとっては不要のものだとわたしは思っている。英語orthograph
白井恭弘『ことばの力学 — 応用言語学への招待』(岩波文庫、2013年3月)と高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書、2013年3月) 先月出た新書の中で、言葉に関するもの2冊を読んだ。 『コトバの力学』は、タイトル通り、「応用言語学」の入門書としてとても良くまとまっている。あまりによくまとまっているので、面白みはない、ような気がしてしまうほど(つまらない、ということではないです)。あとがきにもあるように、これはまさに「教科書」だ。 第Ⅰ部は「多言語状況」、第Ⅱ部は「社会の中の言語」。どちらも、「今でしょ!」的問題である。国家の「言語政策」も重要だけれど、ぼくとしてはやはり「バイリンガル」や「外国語教育」に関する章に興味が惹かれる。 「バイリンガル」については、けっこう硬直したイメージが流布しているのではないかと思う。実際の状況はだいぶ複雑かつ微妙・多様。バイリンガルの子どもの方がモノリンガ
「漢字と日本人」 (文春新書) とゆう 本、いろいろな意味で おもしろく よみました。著者は 高島俊男さん。著書もおおく、また 週刊誌に かきつずけられている コトバに まつわる エッセイを ごぞんじの かたも おおいでしょう。この本も なかなかのヒョーバンのようで、新聞の書評にも ずいぶん とりあげられています。 日本人と漢字との かかわりを ほぼ歴史に そって 解説しながら、未来にむけての 著者の意見を つよく うちだしている本ですが、カナモジカイの会員にわ しりあいから この本で 「あなたが ひごろ主張されている ことが わかった」 と いわれた ヒトも あるそうです。これわ 著者にわ 苦笑もの、いや、そこだけを うけとられてわ こまる、と いいたい ところでしょうか。 なにしろ 高島氏としてわ 「戦後の当用漢字略字体」「はとりかえしのつかない愚挙であった」 (8ページ)、また
たかしま としお/1937年生まれ。中国文学者。東京大学大学院修了。91年に『水滸伝と日本人』を発表。95年から2006年まで「週刊文春」で人気連載「お言葉ですが……」を執筆。著書に『本が好き、悪口言うのはもっと好き』『漱石の夏やすみ』などがある。 この著者の関連記事 若いころから、ずいぶん読書会はやってきた。「この本をいっしょに読もう」と仲間があつまって読む。規約などうるさいことは何もない。途中から加入する者もいるし、来なくなるやつもいる。すべて自由である。読むのは外国語のものだから下調べして行って、順ぐりに読んで訳したり説明したり質問したりしながら進んでゆく、というふうである。 しかし、日本人はいつからこういうことをやっているんだろう、なんて考えたことはなかった。 この本は、その昔の読書会について書いたものである。昔は「会読(かいどく)」と言ったのですね。 始まったのは京都の伊藤仁斎(
http://www.kanken.or.jp/years_kanji/ 「今年の漢字」とは 一年を振り返り世相を表現する漢字一字を考えることで、皆様に漢字の持つ奥深い意義を再認識していただきたいと考え、1995年から毎年実施している行事です。 毎年年末に、全国からその年の世相を表す漢字一字を募集し、最も応募数の多かった漢字を12月12日の「漢字の日」にちなんで12月中旬に、京都・清水寺の森清範貫主に大きく揮毫していただきます。そして、一年の出来事を清めるとともに、新年が明るい年になることを願い清水寺に奉納する儀式を行います。 当協会は、本年も「今年の漢字」を実施できることに感謝するとともに、「今年の漢字」を通じてより多くの方に漢字の素晴らしさを伝え、漢字への興味・関心を喚起し、日本語や漢字文化の継承・普及に努めてまいりたいと考えております。 この賞自体は、ひとつの遊びとしては面白いし、別
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