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2006年6月1日のブックマーク (17件)

  • 窓の杜 - 【NEWS】ひっかき傷で描かれたようなおどろおどろしい日本語TrueTypeフォント「怨霊」

    ひっかき傷で描かれたようなおどろおどろしい雰囲気の日語TrueTypeフォント「怨霊」v1.0が、5月19日に公開された。Windowsに対応するフリーソフトで、現在作者のホームページからダウンロードできる。 「怨霊」は、ホラー系の日語TrueTypeフォント。作者によると、怨霊が書いた文字をイメージしたとのこと。文字の線は直線的でかつ荒れており、拡大すると、細かな傷が無数に寄り集まって文字を形作っているのが分かる。11の傷に怨念が込められているかのように感じられる、不気味な雰囲気のデザインだ。 文字幅はプロポーショナルで、半角・全角の英数字とカタカナ、全角ひらがな、一部記号のほか、JIS第一水準文字を収録する。肝試しの手紙など、怖さを醸し出したいときにぜひ使ってみよう。 【著作権者】暗黒工房 【対応OS】(編集部にてWindows XPで動作確認) 【ソフト種別】フリーソフト

  • 古事記をめぐって Ⅲ「本居宣長」を読む

    前の文章へ戻る 「古典派からのメッセージ・1999年~2000年編」目次へ戻る 表紙へ戻る 古事記をめぐって~Ⅲ「居宣長」を読む 居宣長の鋭敏な感性に支えられた誠実な知の営みはあまりに同時代で卓越し巨大であったため、その全容を継承する者は現れなかった。その実証的学問の部分は伴信友に継承され、ナショナリズムの情熱の部分は宣長の死後の弟子である平田篤胤に受け継がれた。和歌を詠むことが生活の一部となっている宣長の世界に居る限り、国学のナショナリズムの情熱が狂気を帯び、テロリズムや軍国主義に至ることはあり得ない。しかし、柔らかな感性の発露たる和歌の世界と保守的な実務者の生活を欠いた篤胤の国学は、観念的なイデオロギーと化して人々に大きな影響を与えた。それは幕末の激越な尊王攘夷運動と軍国日のファナティックな皇国絶対主義の情熱の源泉となった。国学の実証的学問の伝統は、その後の民俗学の母体になったが

  • 古事記をめぐって~Ⅱ 本居宣長の人間学

    前の文章へ戻る 「古典派からのメッセージ・1999年~2000年編」目次へ戻る 表紙へ戻る 古事記をめぐって~Ⅱ 居宣長の人間学 Ⅰ 中世、近世において、古事記は忘れられた史書であった。居宣長以前は、古事記と同時期に編集された日書紀の方が古代日についての由緒ある歴史書だとされており、古事記は読み習う人も少なかった。 居宣長は、それまでの定説を覆し、古事記が日書紀よりも価値が高いと主張した。確かに書紀は、中国の史書に倣って体裁も整い内容も詳らかである。しかしその文体は、中国の史書を意識するあまり、漢文調に飾られたものであった。一方古事記は、稗田阿礼によって口誦された古い倭語の文体をそのまま伝えようと、太安万侶らが苦心して文字(即ち漢字。ひらがなという便利なものは平安時代の女流文学者たちが作り出すまでは存在しなかった)に写したものである。蔵している内容、心栄えを忠実に表現するには、

  • 古事記をめぐって~Ⅰ 古事記の面白さ

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1008.html

  • 近代日本の音楽文化とタカラヅカ - 本と奇妙な煙

    国民音楽をつくる・東京音楽学校初代校長・伊澤修二 たとえば、三味線は全国に広く普及していた楽器であるが、庶民的で、しばしば遊郭を連想させたため、上流階級からは野卑な音楽と軽蔑された。逆に、上流階級が支持する雅楽や能楽は、一般庶民には難しすぎて共感できるものではなかった。(略) つまり、標準語が存在しなかったように、北海道から沖縄までの日という国家のスケールに見合う音楽文化が存在しなかったといってよい。だからこそ文化統合として「国民音楽」を生み出さねばならなかった。 在来の音楽が国民音楽として不適当であるという認識は、当時の知識人に広く共有されていたらしく、知識人の側から俗楽を批判する主張は当時の雑誌や新聞に頻繁に掲載されている。伊澤もその例外ではない。しかしながら、渡米経験があり欧米文化を熟知していた伊澤は---熟知していたからこそ---短絡的な西洋音楽の礼賛には走らなかった。日人にな

    近代日本の音楽文化とタカラヅカ - 本と奇妙な煙
  • http://nikka.3.pro.tok2.com/bksontrnsltn.html

  • goedel

    「形式的体系 L が無矛盾であれば、直観的には真であるにもかかわらず証明もその否定の証明もできない L の命題がある。」というゲーデルの第一不完全性定理と、「形式的体系 L が無矛盾であれば L では自分自身の無矛盾性を証明できない」という第二不完全性定理ほど、論理学に関心のある素人の興味を惹くものはない。証明もその否定の証明もできない命題とは一体どんな命題だろうか。無矛盾な体系は自分自身の無矛盾を証明できないのなら人間は確実な真理を得ることは不可能であると云う事なのだろうか。さまざまな疑問や不安が生じてくる。しかし、残念ながらゲーデルの定理自体は純粋に数学の定理として述べられているだけなので、予備知識のない素人が詮索するにはあまりに厚いベールに覆われている。 そこで数学の知識のない著者が無謀にもゲーデルの定理に挑戦してこう言うものではないだろうかと思ったので書いてみたいと思う。しかし、何

  • http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/horoike.html

    ドイツ語学研究』(冠詞研究会編)の最新号(1998年度第8号)に有田潤氏の『関口ノート解読の試み』という文章が載っている。関口ノートというのは関口存男 (1894-1958) の残した文例集のことである。文例集を解読するために、関口の文法システムの理解が前提となるが、この文章の中で氏は関口文法の正確な理解そのものがきわめて困難であるということを述べている。 『冠詞』を熟読すれば分かるが、内容の難解さは筆舌につくしがたい。『冠詞』が「分かった」人がいるとすれば、それは用語や表現の多様性によほど鈍感な人である。かくて文例集は、ふつうの意味で読みにくいだけでなく、内容面からの裏づけもけっして容易ではない。(S. 3)  関口文法に傾倒し、長年にわたってドイツ語学および関口文法そのものの研究をねばり強く続けておられる有田氏にして「筆舌につくしがたいほど難解」であるとすれば、有田氏ほどの幅広

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/06/01
    関口文法
  • 日本ポパー哲学研究会機関誌 - Popper Letters

    ポパー哲学研究会機関誌 Popper Letters (2009年よりStudies in Critical Raitonalism) 総目次 Vol. 2 No. 1 (2010) 第21回年次研究大会(慶應義塾大学) Vol. 1 No. 2 (2009) 第20回年次研究大会(慶應義塾大学)報告 Vol. 1 No. 1 (2009) 第20回年次研究大会(号より『批判的合理主義研究』と改題) Vol. 20 No. 2 (2009) 第19回年次研究大会(日大学)報告 Vol. 20 No. 1 (2008) 第19回年次研究大会「可謬主義の潮流」に向けて Vol. 19 No. 2 (2008) 第18回年次研究大会(北里大学)報告 Vol. 19 No. 1 (2007) 第18回年次研究大会 Vol. 18 No. 2 (2007) 第17回年次研究大会(慶応義塾大学

  • 『8時だよ全員集合』のヒゲダンスの歴史について調べています。…

    『8時だよ全員集合』のヒゲダンスの歴史について調べています。誕生秘話、着ていた服装や持っていた道具など、ヒゲダンスについてのことであれば何でも構いません。

  • 言語学者の鈴木孝夫は、意味とは、「ある音声形態と結びつけて頭の中に持っている知識及び体験の総体」として定義します。…

    言語学者の鈴木孝夫は、意味とは、「ある音声形態と結びつけて頭の中に持っている知識及び体験の総体」として定義します。一方、言葉の定義とは、「ある言葉を知らない人に、その言葉を知っている人が、どのような条件があるとき、その言葉が用いられるかを教えるのに用いられる言葉による説明」であるとします。 一般に動詞は一義的に定義しやすいが、名詞は一義的な定義は不可能。なぜなら、一人一人の体験や知識に差があるから。このように意味を定義すると、「地球環境問題」という20世紀後半に出現した言葉(名詞)の意味を、人類が理解することは実に難しいということが予測されます。なぜなら、身長2m足らずの人間は、地球規模の環境問題をとうてい認識することができないからです。また、地球規模の環境問題は、ごく最近の事象であり、それを体験した人間も少ないから。どうすれば、無垢なる人間たちに、「地球環境問題」の深刻さを伝えることがで

  • オモロ 検索エンジン SAGOOL サグール

    SAGOOL(サグール)は、さまざまなものを探し、見つけるためのシンプルな検索エンジンです。

  • OSX Freewares

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • https://www.kumalab.com/soft/

  • YouTube - Broadcast Yourself

    次の国から YouTube を閲覧しているようです: 日 この国からの動画をハイライトして、ウェブサイトの閲覧に以下の言語を選択しました: 日語 この変更を受け入れるには、[OK] をクリックします。または、サイトを英語で表示するには、[キャンセル] をクリックします。各ページ上部の YouTube ロゴの右にある設定は、いつでも変更できます。 You appear to be viewing YouTube from this country: 日 We have highlighted videos from this country and selected the following language for viewing the website: 日語 Click "OK" to accept this change, or click "Cancel" to

  • 「イスラム教」を何と呼ぶべきか、「イスラム教徒」を何と呼ぶべきか - ヰタ・デテスタビリス (reuniの研究日記)

    イスラム教について比較的理解があると思われるサイトでは、「イスラム教」のことを「イスラーム」(もしくは「イスラム」)、イスラム教徒のことを「ムスリム」と呼ぶのが比較的一般的なものと思われる。しかし私はこれらに疑問を持っている。 まず、「イスラム教徒」を「ムスリム」と呼ぶ件について。 最初に「イスラム教徒」の定義をしよう。「イスラム教徒」という言葉の意味するものが「ムハンマドを創始者とする『イスラム教』の信者」であるということには、恐らく疑問の余地はあるまい。ここで重要な点は、「イスラム教」以前、すなわち大雑把に言って6世紀以前には「イスラム教徒」は存在していなかったことになる。 一方、「ムスリム」とは何であろうか? 非イスラム教徒は「ムスリム」=「イスラム教徒」としているが、「イスラム教徒」にとってはそうではないようである。それは、そもそも「ムスリム」とはアラビア語で(神に)「帰依した者」

    「イスラム教」を何と呼ぶべきか、「イスラム教徒」を何と呼ぶべきか - ヰタ・デテスタビリス (reuniの研究日記)