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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (57)

  • 大林太良『北の神々 南の英雄』 - heuristic ways

    人は「単一民族」で「農耕民族」だというイメージは広く流通しているが、それに対する反証もすでにいろいろ挙がっている。 たとえば小熊英二氏は、『単一民族神話の起源』で、日は単一民族国家であるという言説は、植民地を失った戦後に広められた主張であり、大日帝国の時代はむしろ多民族国家・混合民族論ということが言われていたことを明らかにした。 また、網野善彦氏は、「百姓」とは必ずしも農民(稲作民)ではなく、漁業や林業、塩業や廻船業などに携わる多様な非農業民が含まれていたことを、各種の史料から読み取っている。 江上波夫氏は、『騎馬民族国家 改版』の中で、「弥生式時代の水稲農業」の問題を取り上げ、そこに「縄文式時代の狩猟採集の経済」からの断絶と飛躍を見出している。 …弥生式時代の水稲農業は、おそらく縄文式時代の狩猟採集の経済から発展的に導きだされたものではなく、また縄文式時代の後期ないし末期に特別な

  • 『うつほ物語』の衝撃 - heuristic ways

    ビギナーズ・クラシックス版の『うつほ物語』(角川ソフィア文庫、室城秀之編)を読み始めるまで、私はこの物語についてほとんど何の予備知識もなかった。だが、冒頭からしてもうぶったまげた。「わが国初の長編小説」は、デフォーの『ロビンソン漂流記』を思わせるようなエキゾチックな冒険譚として幕を開けるのである。  昔、式部大輔(しきぶのたいふ)で左大弁を兼任していた清原の大君(おおきみ)には、皇女である北の方〔正〕との間に、俊蔭(としかげ)という子がいた。俊蔭はとても聡明で、七歳のときに来朝した高麗人(こまうど)と詩を作り交わすほどだった。俊蔭が一六歳のときに、今回は特に漢学の才がすぐれた者を唐土に派遣することになり、俊蔭も遣唐使の一員に選ばれた。俊蔭とその父母は紅の涙を落として別れを惜しんだが、ついに俊蔭は船に乗った。 唐土(もろこし)に至らむとするほどに、仇(あた)の風〔暴風〕吹きて、三つある舟、

  • 『竹取物語』の他者 - heuristic ways

    『竹取物語』の大まかなストーリーは広く知られている。竹の中で見つけられ成長したかぐや姫が五人の貴公子に求婚されるが、かぐや姫は無理難題のプレゼントを要求して求婚者を次々に退け、最後は天人たちに迎えられて月に帰るという話である。 だが、今回初めてビギナーズ版の『竹取物語』(角川ソフィア文庫、武田友宏解説)を読んでみて思ったのは、かぐや姫がこの物語の登場人物たちにとって異質な他者であるだけでなく、『竹取物語』という「日最古の物語」自体が日の文学伝統にとっての「他者」なのではないかということだった。『日書紀』が日歴史にとっての「他者」であるのと同じような意味で。『竹取物語』や『日書紀』では、いわば「日の外から日を見る」という超越的・外在的な眼差しが徹底しているように思えるのである。  武田友宏氏によると、『竹取物語』はもともと『竹取の翁(おきな)の物語』と呼ばれていたらしい。とす

  • 「開発」に抵抗する主体 - heuristic ways

    鎌田慧『六ヶ所村の記録――核燃料サイクル基地の素顔』(岩波現代文庫、2011年)の5「反対同盟」に、鎌田氏が取材を始めた当初(1970年)の六ヶ所村の寺下力三郎村長へのインタビューが載っている。当時はまだ「開発」の具体的な計画内容が明らかでなく、ただブローカーや開発会社による土地の思惑買いが先行してどんどん進んでいる段階だった。 寺下村長は、「結局、わたしの考え方は、従来からここにおる農民と農地が、あまり移動するとかあるいは消滅するとかいう状況でないような開発計画をたててもらいたいと」いうことだと述べ、その理由として、住民が立ち退くことになった場合、「適応性のある人もあるでしょうけれども、半分以下あるいは三分の一ぐらいは、このままよそへ行くと脱落者になり」かねないからだと言う。「…わたしはこういってるんです。レベル以上を対象にこの開発計画に対処するか、それとも水準点以下の村民を基準にして開

  • 渡辺京二『黒船前夜』 - heuristic ways

    書の副題は「ロシア・アイヌ・日の三国志」というもので、主に一八世紀から一九世紀初頭にかけての「北方」をめぐるロシアと日、そしてアイヌの交渉の歴史を扱っている。 渡辺京二氏は、『逝きし世の面影』で、「異邦人観察者」の目から見た幕末期日の生活様式をつぶさに描き出してみせた。『黒船前夜』も、方法論的にはその延長線上にある試みといえるが、近代以前の「北方」における諸民族の交易や交渉の実態は一般にはあまり知られていないと思うので、「日史」という尺度では測りがたいような光景も視野に入ってくる。  『黒船前夜』では特に主題として前景化されていないが、以前、上村英明『北の海の交易者たち―アイヌ民族の社会経済史―』(1990年)を読んだとき、上村氏が明らかにしているアイヌの異民族交易の実態に驚いたことがある。まず彼らが接してきた異民族として、和人、中国人(満州族)、ロシア人、ウィルタ人(サハリン中

  • 仲村清司『本音で語る沖縄史』 - heuristic ways

    書は、主に琉球王国の成立から解体にいたるまでの歴史を扱っている。 以前、高良倉吉『琉球王国』(1993年、岩波新書)を読んだとき、私は以下のようなメモを書いた。 また、「琉球」は1372年に明朝の冊封体制下に入り、1429年、尚巴志によって統一王朝として琉球王国が樹立されるが、中国との関係が深まるにつれて、「進貢国間のネットワーク」を活かして「朝鮮および東南アジア諸国とのあいだに活発な外交・貿易を展開する」ようになったという。琉球は1430年からジャワと、1456年からマラッカと通交するようになるが、マラッカはこの頃、東南アジアの交易拠点だった。高良氏によると、「一五世紀初頭に成立したマラッカ王国が繁栄を誇った頃、インド商人やアラビア商人がインド洋を越え、マラッカに来航してきた。そして大航海時代の波に乗ってポルトガル勢力が進出し、琉球では尚真王の治世、王国の全盛期を迎えていた一五一一年、

  • 石原吉郎について - heuristic ways

    少し前に、私が愛読しているブログ「さとすけのどら見聞録」で、戦後シベリア抑留体験をした詩人・石原吉郎のことが取り上げられていた(2012-08-18「誰も知らない戦後を生きた人〜石原吉郎『望郷と海』」)。 私が石原吉郎のことを知ったのは、山城むつみ氏の評論『転形期と思考』(1999年)によってで、「ペシミストの勇気について」というエッセイの内容はそこで知った。その後、石原吉郎(1915−77)が戦争中は関東軍情報部に所属していたことや、特に晩年は酒癖が悪く、奇行も多かったことなどを知り、そのあたりの事情を知りたいと思いながら、これまでちゃんと読む機会を見出せずにきた。*1 とりあえず図書館で以前から気になっていた多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』(2000年)というを借りてきて、読んでみた。著者は「新聞記者、週刊誌編集者を経て現在文筆業」をしている人で、『内なるシベリヤ抑留体験』(199

  • 「みそひともじ」の圧縮・解凍 - heuristic ways

    『古今和歌集』をどう読むか。 私はこれまで『古今集』の世界に入り込むための手がかりをつかめずにいたが、小松英雄『やまとうた――古今和歌集の言語ゲーム』(1994年)を読んで、ようやくそのヒントを得たように思った。 小松氏は、「平安時代の和歌は仮名だけを用いて書かれていた」こと、「平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない文字体系であった」ことに改めて注意を促す。  かかりひの かけとなるみの わひしきは なかれてしたに もゆるなりけり  これは『古今集』巻十一・五三〇の歌だが、旺文社文庫版(小町谷照彦訳注)ではこれを、  篝火の影となる身のわびしきはながれて下に燃ゆるなりけり と表記している。小町谷氏は注で、「「流れ」と「泣かれ」を掛ける」ことを指摘しているが、小松氏はこうした掛詞を、「複線構造による多重表現」という視点から解明しようと試みている。そうした「

  • 暦と自然 - heuristic ways

    今はもう図書館に返してしまったので手許にないが、中西進『日文学と漢詩』を読んでいて、「あ!」と思ったのは、「年のうちに 春はきにけり ひとゝせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ」(在原元方)という『古今和歌集』冒頭の歌は、「自然が暦に支配されている」という考え方に基づくものだと指摘されていたこと。 この歌の詞書には、「ふる年に春立ちける日よめる」(旧年中に立春となった日に詠んだ歌)とある。暦がまだ旧年のうち(たとえば十二月十五日)に「立春」になってしまった場合、十六日から三十一日までの「ひとゝせ」を、去年というのか今年というのか、とこの歌では問うているのである。*1  この歌は『和漢朗詠集』(巻上・春・立春・3)にも収められているが、『和漢朗詠集』には他にも暦と季節の一致・不一致を詠んだ詩や歌がいくつもある。 たとえば白居易の次の詩。4 柳気力なくして条(えだ)先づ動く 池に波の

  • 鉄と蝦夷(エミシ) - heuristic ways

    荒俣宏『歌伝枕説』に、「安達(あだち)ヶ原の黒塚(くろづか)」の鬼伝説について述べたくだりがある。 福島県二松市安達ヶ原には、鬼婆伝説で有名な観世寺(かんぜじ)がある。「この敷地内に巨大な岩を積み上げた場所があり、ここに鬼婆が住んでいたと伝えられる」とのことで、今は観光名所になっているらしい。 この鬼女伝説は、室町時代にかかれた謡曲『黒塚(くろづか)』に基づくようだが、この謡曲のタネになったのは、平安時代の三十六歌仙の一人・平兼盛(かねもり)の歌だという。《みちのくの あたちの原の黒塚に 鬼こもれりと云ふはまことか》(『拾遺集』)  もともとこの歌は、「名取郡黒塚」にいた陸奥守(むつのかみ)・源重之(しげゆき)の妹をみそめた兼盛が、重之の父に書き送った歌で、「鬼」とはいわばかくれんぼの鬼、つまり「陰に隠れて出てこない女性」のことをたとえた一種の洒落だったらしい。 しかし、「これが『大和物

  • 外村大『朝鮮人強制連行』 - heuristic ways

    朝鮮人強制連行 (岩波新書)作者: 外村大出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/03/23メディア: 新書購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件) を見る  このの帯には、「朝鮮人強制連行の歴史は、“朝鮮人のために日人が覚えておくべき歴史”ではない」という著者の言葉が紹介されている。 このを読むまで私は、戦時中の朝鮮人強制連行について事実関係をよく知らなかったし、自分にとってこの問題が何を意味するのかを考える具体的なとっかかりがないように感じていた。もちろん、私がそのような「人権侵害」を強いた旧宗主国の子孫であるという事実は認識できる。だが、私がいま置かれている状況や自分が抱えている問題との具体的な接点が見えてこなければ、そこにはどうしても切実さが欠けてしまう。たとえば、「戦時中に強制連行されて過酷な労働を強いられた朝鮮人がいる」という風に捉えるだけでは

  • 名前という政治的資源 - heuristic ways

    ナポレオン三世(シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1808−73)は、「偉大なるナポレオンの出来の悪いファルス」という戯画的イメージによって知られているが、鹿島茂氏は、『怪帝ナポレオン三世――第二帝政全史』で、いろいろ調べていくと、ナポレオン三世は「バカでも間抜けでもない」し、「ゴロツキ」でも、「軍事独裁のファシスト」でもない、「スフィンクスのような人物、つまりどんな定義の網もかぶせることのできない謎の皇帝、端倪(たんげい)すべからざる怪帝」として、改めて見直される人物ではないかと問題提起している。 マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』で、ナポレオン三世を、「叔父のかわりに甥」という二度目の茶番(ファルス)として描いているようにみえるが、実は、「マルクスが一番憎んでいたのは、ナポレオン三世のクー・デタで一掃されたティエールらのオルレアン王朝派ブルジョワジー」だったと鹿

  • 安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』 - heuristic ways

    スフィンクスは笑う (講談社文芸文庫)作者: 安部ヨリミ出版社/メーカー: 講談社発売日: 2012/02/11メディア: 文庫クリック: 5回この商品を含むブログ (3件) を見る  安部ヨリミ(1899−1990)が安部公房(1924−1993)の母だと知ったときは驚いたが、『スフィンクスは笑う』(原著1924年)を読むと、真に驚嘆すべきことは、その理知的でモダンな小説の水準と達成にあることがわかる。私はこの小説を読みながら、はじめは漱石の『行人』(1913年)や『明暗』(1917年)を連想したりした。やがて、与謝野晶子(1878−1942)や山川菊栄(1890−1980)らが切り開いた女性の自己認識や社会的立場(家事労働や貞操)の問題がテーマに浮上してくるが、最後はさらに一転して、「解説」の三浦雅士氏が指摘するように、自然主義文学やプロレタリア文学を思わせるような転回が待ち受けている

  • 「非武装」のトリック - heuristic ways

    村上春樹氏は、昨年6月にスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行なったスピーチで、「戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?」と問いかけ、「我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった」と主張した(2011-06-13「なぜ核の惨禍を忘れたのか」参照)。 私も基的に村上氏のスピーチに共感を覚えたのだが、先日、大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』(岩波新書)を読んで吃驚した。 村上氏流の考えでは、われわれが原発建設を容認(黙認も含めて)することになったのは、「原爆体験」の記憶がいつの間にか風化し、「核に対するアレルギー」を忘却するにいたったからだということが前提になっている。 だが、そうではなく、むしろ逆ではないか。戦後日人は「原爆体験」の記憶を伝え、「核に対するアレル

  • 古典について - heuristic ways

    この歳になるまで私は、まさか自分から進んで『万葉集』や『平家物語』などの古典に興味をもつことになるとは思いもしなかった。高校時代に学んだ古文は、私にとって、英語よりももっと訳のわからない苦痛をもたらしたトラウマ的な体験であり、憧れや懐かしさなどを感じたことは一度もないからだ。 しかし、振り返ってみると、私は二〇代の頃まで、哲学書や近現代の小説を読んでもよく理解できないことのほうが多く、だからこそかえって、「訳のわからない暗号文を解読したい」という動機に駆られて読書を重ねてきたのではないかと思う。アグネス・スメドレーが子供の頃から「手さぐりのようにして」、「ほとんど一行もわからない」ようなにまで挑戦したというエピソードは、私にはとても共感できる。 最近私がにわかに古典を読みたいと思うようになったのも、その延長かもしれない。 ただ、その伏線として以前から引っかかっていたことがある。小林秀雄が

  • 万葉集メモ4 - heuristic ways

    中西進『万葉集入門――その歴史と文学』を読んでいて、驚いたことがある。われわれは『万葉集』を古代日の文芸の達成を示すものであり、いわば「国民文学」の代表のように見てしまいがちだが、万葉集の歌がうたわれた当時にあって、和歌は文芸の主流ではなく、むしろ古風な時代遅れのものとみなされていたらしいのである。当時最新流行の文芸は漢詩であり、漢風文化こそがメインストリームだった。和歌はむしろ、漢詩という主流の体制的文化に対する対抗文化(カウンターカルチャー)として再認識され、リヴァイヴァルされることになったと考えたほうがいい。 百済滅亡にともなってその要人の多くは日に亡命したが、彼らは天智朝廷における各方面の文化に大きく貢献した。わが国の最初の漢風文化の栄えたのはこの天智朝であって、懐風藻(かいふうそう)という漢詩集の最初の漢詩人として大友皇子(天智と伊賀采女宅子〔いがのうねめやかこ〕との子)が現

  • 平将門をめぐって - heuristic ways

    私が平将門に興味をもつようになったのは、5年くらい前に大岡昇平の『将門記』を読んで以来のことだが、最近、将門について、二つのことが気にかかっていた。 一つは、将門が天慶二年(九三九)、坂東八カ国を制圧したとき、「巫女が神がかりし、八幡神が菅原道真を通じて将門を「新皇」とする、という託宣を下した」(網野善彦『日社会の歴史(中)』)のはなぜかという問題であり、もう一つは、高橋富雄氏が『平泉の世紀』で指摘している「平将門と藤原清衡」、「坂東と奥州」の関係はどこまで根拠があるものなのかということだった。 図書館で川尻秋生『戦争の日史4 平将門の乱』というを借りてきて読んでみると、それなりに納得の行くところがあったので、ここでポイントを整理しておきたい。  その前にまず私が驚いたのは、当時の利根川や鬼怒川は現在とは流路が異なり、「そもそも、現在からは想像しにくいかもしれないが、当時の常陸(ひた

  • 平安時代の「忘却」 - heuristic ways

    正岡子規は『歌よみに与ふる書』(明治31=1898年)で、「近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば万葉以来実朝以来一向に振い申さず候」、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにして『古今集』はくだらぬ集にてこれあり候」と乱暴に啖呵を切ってみせた。 だが、子規が『古今和歌集』を貶し、反対に『万葉集』を高く評価したのはなぜか。私はこれまでそれを子規個人の趣味判断の問題だと思ってきたけれども、川尻秋生氏は、『平安京遷都』*1の中で、驚くべきことに、それが明治初期の近代化政策にともなう価値転倒、具体的には「平安時代の排除」と飛鳥時代・奈良時代の「発見」を時代背景としたものであったことを指摘している。どういうことか。 明治四年(一八七一)八月、天皇の服制を改めるという以下のような勅〔ちょく〕(天皇の命令)が下される。「今の衣冠(服装や冠)の制度は、中古の唐制を模倣したまま現在に至り、「軟弱」のあり

  • 余談〜KamakuraとAmerica - heuristic ways

    中世初期の歴史を調べていて、私が興味深く思ったのは、複数の研究者たちが、たとえば「武士たちのいわば独立戦争」(郷和人)とか、源家の「明白なる宿命(マニフェスト・デスティニー)」(高橋富雄)といったように、アメリカ史の用語をアナロジカルに援用しているということだった。 私がそこに引っかかったのは、以前、渡辺京二氏の『日近世の起源』を読んだとき、渡辺氏が佐藤欣子『取引の社会』(中公新書、1974年)を参照しながら、「このアメリカ司法の当事者主義は、日中世の当事者主義的な法慣行になんと似ていることだろう」と、驚きをもって指摘していたのが記憶に残っていたからである。渡辺氏は、「鎌倉幕府法を見るかぎり、中世日には、裁判を国事とする観念はきわめて希薄」であり、「そこでは、権利も正義も各人が闘って実現すべきものであり、(中略)訴訟自体がいちじるしく当事者の決闘に類似していた」と言っている。渡

  • 契丹と女真など - heuristic ways

    しばらく前から韓国ドラマ『千秋太后(チョンチュテフ)』(2009年、全78話)を見ている(今のところ22話まで見た)。これは、第5代高麗王・景宗(キョンジョン、在位975−981)の晩年から第6代・成宗(ソンジョン、在位981−997)にかけての時代を描いたもので、ヒロインのファンボ・ス(後の千秋太后)は、景宗の皇后で、成宗の妹、さらに第7代高麗王・穆宗(モクチョン、在位997−1009)の母である。 この時代の高麗は、宋朝に朝貢しており、宋と敵対関係にある契丹の圧迫を受けている女真族の侵入に悩まされたり、契丹に滅ぼされた渤海の遺民たちの処遇などの問題を抱えている。 高句麗滅亡(667年)から渤海建国(698年)までを描いた『大祚栄(テジョヨン)』にも、契丹や突厥などの北方遊牧民族が出てきたが、「日史」という観点からは、こうした大陸の諸国家や北方の諸民族との関連が見えにくい。 だが、杉山