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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/garyou61 (17)

  • 「ジェノサイド」(19) - 画竜点睛

    話があちこちに飛びますが、今度は「物質と記憶」第三章の観念連合に関する分析を見てみることにします。前述したように、「現在の知覚にみなどこか似たところのある無数の記憶の中から、いかにして選択がなされるかということ、またなぜその中の唯一つだけが、――ほかの記憶よりとくにこの記憶が――、意識の光をあびて浮き上がってくるかということ」を、類似や近接によって説明することはできません。観念連合を類似や近接によって説明しようとする連想説は単に意識の状態が相互に結び付いた結果だけを見て類似や近接について語っているに過ぎず、それがどんな力に基づいているかを説明し得ないのです。一般に互いに独立したイマージュが無条件に与えられ、それらが何らかの「引力」によって引き寄せ合うのが観念連合だと考えられています。しかしこのように考えていたのでは、何故イマージュ同士が引き寄せ合うのかをいつまでも経っても理解することはでき

    「ジェノサイド」(19) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(15) - 画竜点睛

    * 「創造的進化」第三章の冒頭、ベルグソンは第一章と第二章を振り返って次のように述べています。 第一章ではまず無機的なものと有機的なものを区別しました。しかし無機物の考察から導き出されたのは、物質の対象(無機物)への分割は感覚や知性と相対的であり、したがって無機物は全体(物質界)から切り取られた抽象物でしかないこと、それらを存在一般に組み込むには個々の対象や個々のシステムを「このシステムが一部をなす具体的な全体」に再統合しなければならないこと、そして物質を全体として見た場合、それは「意識のように進展する」ある流れ(運動あるいは傾向と言い換えてもよいでしょう)と看做されるということでした。「このシステムが一部をなす具体的な全体」と不可分な全体としての物質は「互いに固く結び付いて」いますが、同じものではありません。たとえそうだとしても無機的なものと有機的なものを互いに接近させる道がこれによって

    「ジェノサイド」(15) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(14) - 画竜点睛

    たとえば身体は生命によって回避された障害物でしかないにもかかわらず、知性の目には宿命的に実在的な部分の集合であるかのように映ります。先ほど引用したジャンケレヴィッチはこれを「「…であるから(quia)」という意味をもった「…であるにもかかわらず(quamvis)」」という面白い表現で表しています。つまり知性は裏返しになった世界を見ているわけで、この世界では逆再生のように時間は過去に向かって流れていくのです。知性は自分の見ている世界が唯一可能な世界だと信じていますが、量子力学はそれが単なる思い込みに過ぎないことを明らかにします。「彼(プランク)は物質と輻射線との間の相互作用を突きとめるのに熱輻射を扱ったのだが、この現象に関する実験の示すところを厳密に記述しようとすれば、物質は、振動数vと所謂プランクの常数hとの積に等しい有限の量ずつしかエネルギーを失う事は出来ない、という仮定の導入を必要とす

    「ジェノサイド」(14) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(13) - 画竜点睛

    能がある種の知識、一種の予言的ともいえる能力を持つ実例は枚挙に暇がありません。例えば馬の脚や肩に卵を産み付けるウマバエは馬が自分の体を舐める際に幼虫が消化管に運ばれ、胃の中で成長することになるのを前もって知っているかのようですし、獲物の神経中枢をピンポイントで刺して麻痺させる或る膜翅類の昆虫は天才的な腕を持った外科医さながらです。中でもシタリスという甲虫(ネットで調べてみましたが、詳しいことはわかりませんでした)は、その博識さの点で一頭地を抜いているといえるでしょう。シタリスはまず「ミツバチの一種、アントフォラが作る地下道の入り口に卵を産み落と」します。孵化したシタリスの幼虫は雄のアントフォラが地下道から姿を現すのを辛抱強く待ち、出てきた雄のアントフォラの体につかまります。当初はそのまま雄の体にしがみついて過ごしますが、アントフォラが繁殖のため外へ飛び立つ機を捉えて雄から雌に鞍替えし、以

    「ジェノサイド」(13) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(11) - 画竜点睛

    もしエラン・ヴィタルが無限で、逆向きの運動に出会うことがなければ、生命は「ただ一つの身体に刻み込まれ」、「純粋な創造的行動性」として現れることも可能だったでしょう。しかし現実には特定の惑星で進化する生命は物質に縛り付けられており、種の中の個体を通してしか現れることはできません。このことが意味しているのは、生命は個体性と社会性の間を揺れ動いており、ちょっとしたバランスの狂いによってどちらか一方に傾くということです。たとえばラッパムシを核の中心を境に真っ二つに分割すると、二つの独立した個体として再生します。ところが分割を完全には行わず、辛うじてつながっている部分をほんのちょっと残しておくだけで、今にも離れ離れになりそうな二つの断片は完全に連携した運動を行い、一つの完璧な個体であるかのように振舞います。「こうして、単細胞からなる原初的な有機体においてすでに、全体の見かけの個体性が、潜在的に結合し

    「ジェノサイド」(11) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(9) - 画竜点睛

    一方無機物につづけて、ベルグソンは有機体の特徴を以下のようにまとめています。無機物が科学によって人為的に切り取られたものであるのに対して、有機体は自然そのものによって孤立させられ、閉じたシステムを形作る傾向を持ちます。熱力学的には生物は開放系に属しますが、ベルグソンはそれがむしろ特殊な意味での閉鎖系、すなわち個体を形成する傾向がある点に着目します。人間においてさえ確かに個体性は完全なものではなく、「時間において永続したいという個体性が感じる欲求そのもののせいで、個体性が空間において完全になることは決して」ありません。が、たとえばヒドラなどに見られる再生という事実が示すように、個体性への傾向は有機的世界の至るところに遍在しており、「機会があり次第姿を現すと考えられ」ます。ただこの傾向は顕在化するや否や生殖という別の傾向の抵抗を受け、完全になることを妨げられているだけです。 有機体のもう一つの

    「ジェノサイド」(9) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(8) - 画竜点睛

    「宇宙とは諸々の太陽系の集合で」、各々の太陽系は地球が属する太陽系と大なり小なり類似しているものと考えられます。それらは互いに独立したものではないにせよ、太陽系同士の結びつきは限りなく緩く、人間は地球と地球を養う太陽以外のものに依存していません。他方、地球が属する太陽系を支配する物理法則は、閉鎖系と看做すことのできる他の太陽系にも適用可能だと思われます。が、「宇宙はすでにできあがったものではなく、不断にみずからを作るものである」と想定した場合、諸々の太陽系をすべて引っくるめた宇宙全体を一太陽系の物理学の諸法則が支配していると考えるのには無理があります。 たとえば、科学の最も一般的な法則、エネルギー保存則(熱力学第一法則)とエネルギー散逸則(熱力学第二法則)を「太陽系という相対的に閉じたシステム」全体において捉えたとき、この二つの法則が表しているのは次のようなことです。 まずエネルギー保存則

    「ジェノサイド」(8) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(7) - 画竜点睛

    カントは「時間と空間は私たちの感性の形式」だと考えましたが、そもそも空間とはカントのいうような感性の形式なのでしょうか。知覚が対象への行動の可能性を示すものであって、イマージュの総体から身体に利害関係のある作用だけを浮かび上がらせるものであることはすでに述べた通りです。この結果知覚はもともと途切れのない「延長物の連続」に自ずと区画を設け、物質を諸々の物体に分割します。この分割の極まるところ、「任意で無限な分割可能性」が姿を現します。単に考えられるに過ぎないこの「まったく観念的な図式」こそ空間に他ならない、とベルグソンは考えます。知覚が物質を物体に分割するのと並行して、記憶は事物の連続的な流れを感覚的性質に凝縮し、瞬間として固定します。或る瞬間から別の瞬間を区別し、同時に人間とその他諸々の事物の持続を強引に結びつけるための抽象的な媒体が(等質的)時間です。したがってこのような意味での空間と時

    「ジェノサイド」(7) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(6) - 画竜点睛

    手の甲をピンで突くと触覚がやがて痛みに変わるように、知覚は身体に及ぼす作用の増大によって感情になり、最終的に苦痛に変ずるように見えます。逆にピンを押す力を緩めれば苦痛は徐々に減じ、苦痛の原因であった知覚の状態に戻って表象を形作るように見えます。現象をこのように静的に捉えてしまうと、感情と知覚の間には無限の段階があり、感覚とイマージュの間の超えられない溝を感情が埋めてくれるように思えなくもありません。しかしこれでは知覚も感情も苦痛も同列に並んでしまい、それらの境界線は気分次第でどうにでも変えられることになってしまいます。刺激の増大が知覚を苦痛に変えるのが事実だとしても、苦痛の生じるはっきりとした瞬間があり、感情の生じるはっきりとした瞬間があります。それらを生命活動の観点から厳密に区別しなければなりません。 すでに述べたように、原生動物の身体の各部は刺激を受容する知覚器官であると同時に、運動器

    「ジェノサイド」(6) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(4) - 画竜点睛

    「物質と記憶」発表の前年(1895)、ベルグソンは「良識と古典学習」と題された講演を行っています。これは10代の学生を対象とした講演で、死後刊行された「エクリ・エ・パロール」という小論集に収められています。半ば儀礼的な講演であるにもかかわらず、ベルグソンの考える良識(常識)というものがほぼ十全に分析されていると言っても過言ではありません。 一口に常識といっても肯定的に受け取られる場合もあれば、軽侮に近い扱いを受けることもあります。常識は生き物であり、他の多くの観念と同様、簡単に分析のできる単純な対象ではありません。ベルグソンがここで試みているのは、常識という対象の分析というよりも、常識という新しい観念の創造だといったほうが適切かも知れません。 ベルグソンが繰り返し注意を喚起しているところですが、人間の感覚は事物を正しく認識することを機能としているわけではありません。味が甘いか辛いか、熱いか

    「ジェノサイド」(4) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(3) - 画竜点睛

    まず注意しておかなければならないのは、この「不確定性」が人間の知識や認識の不完全さから来ているのではなく、自然自体に由来しているということです。それは「客観的自然の客観的記述という物理学の基的な仮定」が崩れ去ったということであり、量子力学はこの「不確定性」の上に成り立っている点で、「パラドックスを孕んでいる」といえます。そして「ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルグソンが、そのソフィスムに、哲学の深い動機が存する事を、飽く事なく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだった」のではないかと小林秀雄は考えます。 「不確定性原理」とゼノンのパラドックスが対応しているというのは正直僕にはピンと来ないのですが、パラドックスといえば量子力学には有名な「シュレーディンガーの」と呼ばれるパラドックスがあります。そもそもパラドックスというのは性質の異なる要素の混同から生まれるもので、ここで

    「ジェノサイド」(3) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(2) - 画竜点睛

    * 小林秀雄は現代物理学が逢着した問題を論ずるにあたり、以下のように述べています。 「ベルグソンは、物資の研究について、「科学の最も遠い理想」として予感したところを、凡そ、次の様に要約する。物理学者は、物質の一切の部分の間に相互作用がある事を認めざるを得ないのだが、受動的な事物とこれに作用する力とを区別する。この私達の日常の生活の要求に基づく粗雑な心像が、何の役にも立たぬ事は、物質の直接な観察を進めて行けば、やがて明らかになるだろう。非物質的な作用は物質化し、物質的な原子は観念化し、両者は、互に、その共通の限界に向って結合しようとして来るだろう。そうなっても、私達の精神が、それを分離しようと働く限り、原子はその個性を失わないだろうが、その個体性や惰性は、自ら運動や力線に分解し、再び相互の聯絡は一般的連続を回復しようとするだろうと」 これはベルグソンの言葉をそのまま引用したものではなく、「物

    「ジェノサイド」(2) - 画竜点睛
  • 「ジェノサイド」(1) - 画竜点睛

    高野和明さんの「ジェノサイド」というを読み終わりました。 この中で主要な登場人物の一人、大学の薬学部に籍を置く大学院生が毎日実験に明け暮れるわが身とアルバイトに明け暮れる文系学生とを引き比べ、文系の人間は気楽なもんだとぼやく場面があります。これは小説筋とは関係のない登場人物の紹介シーンに過ぎないわけですが、文系と理系との間に横たわる溝を象徴的に表しているようにも見えます。少なくとも僕はこの箇所を読んで、文系人間としての自分の能天気さをちくりと皮肉られたようなむず痒さを覚えたのでした。 こんな風に感じたのは、むろんこの間に起こった出来事によって自分の理解の限界というものをつくづく思い知ったからです。そして文系・理系という分け方は、案外人間の質的なところに根ざしているのかも知れないなと思いました。 理系(科学)の世界では、何よりもまず「正確さ」が最大の価値を持ちます。他の何を犠牲にして

    「ジェノサイド」(1) - 画竜点睛
  • OTEditのバグ(?) - 画竜点睛

    フォントの一部において縦組み時と横組み時の仮想ボディ内の位置が合致しないというOTEditのバグ(?)ですが、その後思い付いてパスのポイントを増やしてみたところ、位置のズレがかなり軽減されました。とはいえ完全に同じになるまでには至らず、どうしたかものか頭を悩ませています。 実用上はほぼ問題ないと思えるのですが、僕がそう判断してもすべての人がそう判断するとは限りません。断りを入れた上で公開するか、それともお蔵入りにするか迷うところです。 パスのポイントを増やすという対処法を思い付いたのは、以前別のフォントで同じ現象が起きたのも「の」という文字だったことからです。「の」と他の文字との違いは何かと考えたときに思い当たったのが、ハンドルの長さが他の文字に比べて長いということでした(下図参照)。ではハンドルを短くしてやれば問題が解消されるのではないか、と考え、そのための手段としてパスのポイントを増や

    OTEditのバグ(?) - 画竜点睛
  • 石井太ゴシック体 - 画竜点睛

    フォントとは関係のないネタがつづいているので、たまには別の自作フォントも紹介してみます。といってもまだ未完成で、この先完成できるかどうかもわからないのですが。 (片仮名と一部の平仮名は「かちどき」と同じものです。例文は〈タイプラボ〉の組見用創作文(Copyright (C) 1990 by Akira Satoh[Directed by TYPE-LABO and NAVEL])によります) このフォントには決まった名前はなく、とりあえずベータという名前で呼んでいます。このほかアルファに相当する明朝体もあるのですが、これについてもいずれ紹介する機会があるかもしれません。 ベータを作り始めたのは、「かちどき」よりずっと前です。というより一番最初に作り始めたのがこのフォントなのです。 当時外字フォントを作成する必要からFontgrapherというソフトを入れ、実際に何度か外字を作成して徐々に

    石井太ゴシック体 - 画竜点睛
  • 精興社明朝その後 - 画竜点睛

    前回精興社明朝について思いがけない発見をしたので、もうちょっと調査の範囲を拡げてみました。 ただし割ける時間は限られていますし、ある意味こんなどうでもいいようなことを徹底して調べてみようと思うほど僕も酔狂ではありません。 ささやかながらその後わかったことを簡明に記すだけです。 まずデジタルフォント化された現在の精興社明朝に使用されている漢字についてですが、これは今もってはっきりとはわかりません。 もともと漢字は、仮名に比べて差が見分けづらいという事情がある上に、同じ文章同士で比較することができません。たとえば精興社明朝で組まれているAというに出てきた「外」という漢字と、イワタ明朝体オールドで組まれているBというに出てくる「外」という漢字を比較しようと思っても、想像以上に当該漢字を探すのには骨が折れるのです。ようやく同じ漢字を見つけたと思っても、その漢字がよほど特徴を持ったものでない限り

    精興社明朝その後 - 画竜点睛
  • ゴナ - 画竜点睛

    このところ忙しくてフォントの修正作業がいっこうに捗りません。 忙しいのは有難いことで大歓迎なのですが、寝不足と疲労が重なり頭がまわりません。 たまには頭を空っぽにしてぼーっとしたいものです。 ところでフォントについてえらそうなことを述べているくせに、僕は活版はもちろん、手動写植機を操作したこともありません。MacintoshとQuarkXPressが出現するまでは、電子組版機と呼ばれる専用機をずっと使用していました。 当時は今のようにどこもかしこもInDesign一色というようなことはなく、大小さまざまなメーカーから電子組版機が出されて百花繚乱たる様相を呈していました。富士通や東レ、パナソニックといった今では考えられないようなところが組版専用機を出していたのです。 僕がこの世界に入って初めて触れたのは、横河電気というところから出ていた電子組版機でした。これはまず入力方式からして独特で、一つ

    ゴナ - 画竜点睛
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