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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (7)

  • 『福田恆存』について - jun-jun1965の日記

    ミネルヴァ書房日評伝選(いったい何が「選」なのか不明だが)の川久保剛『福田恆存』は、初の福田の伝記である。私は若いころ、西部さんとか呉智英さんが盛んに言うので、福田を偉いと思っていたが、最近は評価が下がっている。シェイクスピアの翻訳は硬くて、あとから出た小田島訳はもとより、同時代の中野好夫、三神勲などの訳に比べてさえ、悪い意味で「新劇」である。戯曲は今ではあまり読むにも上演するにも耐えない。国語国字問題については、福田が正しいのだが、福田を称揚する人びとが新字新かなで書いていたりするのだから、あほらしい。平和問題については、今ではまともな人はみな福田に賛同するだろう。文学論については、私は評価しえない。 それにしても、伝記が出るのはいいことだ。かつて坪内祐三は、江藤淳が家系自慢をするのを批判して、神田の電気屋の息子だった福田が聞いたら何と思うか、と書いたが、恆存の父幸四郎は、ただの電気職

    『福田恆存』について - jun-jun1965の日記
  • 大河ドラマに革命が起きた - jun-jun1965の日記

    うーんまた坂龍馬かよと思っていたら驚いた。『坂の上の雲』もそうだったが、NHKに何が起きたのか。この20年「江戸ブーム」で、それ以前の、厳しい身分制社会、貧農史観は過剰に見直されてしまって、インテリでさえ「お江戸でござる」的にみんな明るく楽しく生きていたみたいな江戸幻想を抱いている人がおり、大河ドラマもその例に漏れず、お姫さまが下級武士デートしたり、家臣のが信長の前へしゃしゃり出たりとえらいことになっていたが、ガラリ変わって、下級武士の貧しく汚い生活をきちんと再現しているではないか。これだこれだ、これが当の徳川時代だ、俺が言いたかったのはこれなんだ、これで「江戸幻想」も吹き飛ぶぜと随喜したぜよ。 上士が下士を切り捨て御免でお咎めなしなんて、ありえないと思うが、シナリオは手だれだ。あるいは、たいてい大河ドラマに出てくる女はみなきれいきれいなお化粧をしていたのが、あの寺島しのぶの砥粉で

    大河ドラマに革命が起きた - jun-jun1965の日記
  • 幻の序文 - jun-jun1965の日記

    『翻訳家列伝101』の「明治・大正期の翻訳家」の序文は、書いておいたものがゲラにならず、私も書いたことを忘れて新たに書いてしまったので、残っていた。重複するがもったいないから掲げておく。 第一章 明治期の翻訳家たち 幕末から明治初期にかけての、日の指導的人物たちの、西洋文明の良いところを取り入れようという努力は、感動的である。ペリーの黒船来航の際に、異人排斥でいきり立っていた者たちが、いざ実地に西洋を見て回り、現在の日の国力ではとうていこれに太刀打ちできないとたちまちに悟り、攘夷を捨ててそれらの文明を取り入れるべく動き始めるのが、実に迅速である。 ところで、明治前期の知識人たちの英語力は非常に高い。福沢諭吉なども、蘭学をやっていたが、横浜が開港されると、今や英語が世界語であることに気づいてすぐに英語をやり始める。明治維新後に近代的な学校が作られると、西洋人を教師として招き、「お雇い外国

    幻の序文 - jun-jun1965の日記
  • 小林よしのり氏に答える(2) - jun-jun1965の日記

    (活字化のため削除) - 高井戸図書館のすぐ裏手に、松清張邸があるのを発見した。いやあ、この家、欲しいなあ、と思った。まあ清張だって50くらいから売れっ子作家になったわけだし、可能性ゼロとは言えないぞ…などと。何といっても、書庫が欲しい。もうそれだけである。 - 小熊英二は往年の学生運動の連中を愚かだと思っているようだが、九条の会に参加している自分の愚かさには気づかないのだろうか。不思議だ。実に不思議だ。 (活字化のため削除) (小谷野敦)

    小林よしのり氏に答える(2) - jun-jun1965の日記
  • 本の売れる・売れない - jun-jun1965の日記

    桂文珍が、谷沢永一の誘いで関西大学で非常勤講師をした時、給料明細を見て、一桁違っているのではないかと驚いたという。もちろん、安いのに驚いたわけだ。文珍とて、高座と同じくらい貰えるとは思っていなかっただろうが、予想外に安かったわけだ。逆に、非常勤講師でっている人が、人気俳優などの収入、あるいは文珍の一高座のギャラを聞いたら、学者などやる気をなくすだろう。私も、人気タレントのCM出演料が数千万円と聞いた時は、意気阻喪した。 内館牧子が昨年暮れ、『女はなぜ土俵に上がれないのか』を新書で出したが、内館も驚いただろう。研究したものというのは、こうも売れないのかと。内館は脚家だが、エッセイも書いているし、ドラマのノヴェライズも出している。内館がいかに苦労人でも、新書で出してもこの程度のものを、でかい研究書をせっせと研究したあげくに出す学者連の気が知れないと思ったのではないか。 「学者になって、

    本の売れる・売れない - jun-jun1965の日記
  • 昔もあった新書ブーム - jun-jun1965の日記

    いやー新書戦争は大変なことになって、年間200冊くらい出ているようだ。しかし、かつては岩波、中公、講談社の御三家があったといっても、新書とは名乗らないがレグルス文庫、文庫クセジュ、教育社新書、あるいは地味な三一新書とか新日新書とかもあった。もっと前に角川新書や河出新書、紀伊国屋新書があるのは知っていたが、調べたらけっこう昔も新書ブームで、新書を出していたなんて思えない出版社も出していた。秋田書店なんか「サンデー新書」で、ちゃんとサンデー・コミックスと揃えていたんだね。まあそれが『少年サンデー』を小学館にとられて、自社は少年チャンピオンに甘んじたりして。でもサンデー・コミックスは秋田書店だから、小学館は少年サンデー・コミックスだったりして。中には、90年代新書戦争が始まるころにひっそりとなくなった新書もあって、これって、18歳人口が減るのに応じてひっそりと閉鎖される短大みたい。 角川新書 

    昔もあった新書ブーム - jun-jun1965の日記
  • 泉下の福田恆存先生! - jun-jun1965の日記

    先日、毎日新聞投書欄に、こんなものが載っていた。 字幕、「づつ」は「ずつ」と訂正を=無職・今村義雄・73(東京都板橋区) 2007.01.09 東京朝刊 近ごろ、テレビのニュースでアナウンサーのしゃべる言葉と字幕の文字とが異なることがしばしば起こります。放送原稿はしっかりと目を通しているのに、その言葉を字幕にするとき、注意を払うのをおろそかにするためでしょう。気のついた(誤った)言葉遣いはニュースの終わりに訂正することが普通ですが、それすら見逃していることがあります。 「一人ずつ」とか「一つずつ」とかの場合がこれにあたるのですが、字幕では「一人づつ」あるいは「一つづつ」となっていて、誤りに気づかないのです。「ずつ」も「づつ」も同じ発音のため、誤ったまま訂正もされずに放送が終わるということなのですが、字幕の責任者は、きちんとなっていることを確認しているのでしょうか。「放送では『づつ』となって

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