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ブックマーク / jyunku.hatenablog.com (15)

  • 京都帝国大学の学知を支えた須磨勘兵衛の内外出版印刷ー井上書店の追悼にー - 神保町系オタオタ日記

    今年も無事みやこめっせの古まつりに行けました。目録の巻頭に井上書店の井上道夫店主の追悼文が載っていて驚きました。略歴を要約すると、 昭和21年4月 今出川通吉田神社鳥居の西側に父小三郎が開業 昭和26年7月 現在地に移転 昭和28年12月 誕生 昭和52年8月 父の後継ぎとして古屋の道に入る 平成14年6月 京都古書研究会代表に就任(6年間) 令和5年11月 逝去(享年69) 平成29年12月井上書店の店頭に大量の状態の良い内容見が100円均一で出たことがあった。何回か行って100冊以上買ったと思う。若き日の先代が河原町の新刊書店で貰ったものとの話を聴いた日を懐かしく思い出します。あらためて御冥福をお祈りします。 今回は井上書店で買った『春錦会員名簿:昭和十年版』(京都府立京都第一高等女学校、昭和10年6月)の話をしよう。同書店が古まつりに参加していた数年前に買ったもので、500円

    京都帝国大学の学知を支えた須磨勘兵衛の内外出版印刷ー井上書店の追悼にー - 神保町系オタオタ日記
  • 吉永進一「ピラミッドゼミ」 VS. 神保町のオタ「日本オカルティズム入門ゼミ」ーー横山茂雄ロングインタビュー掲載『近代出版研究』2号が4月発売ーー - 神保町系オタオタ日記

    早いもので吉永進一さんが亡くなられて、今月末で1年になる。亡くなって数ヶ月間は思い出すだけで涙が出たが、もうそういうこともなくなった。吉永さんとは、大学に入ってUFO超心理研究会で出会って以来の仲である。当時の吉永さんは相手によっては厳しい人であった。しかし、私は同郷で高校の後輩でもあったので、可愛がられた方だと思う。 吉永さんに頼まれて私も寄稿した栗田英彦編『「日心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院、2022年10月)は、吉永さんの没後に刊行された。その栗田「あとがき」231頁には、次のような過分の言葉があった。 (略)神保町のオタさんは、吉永先生が学生時代に所属したサークル「京都大学UFO超心理研究会」の後輩で、これまた伝説となった近代ピラミッド協会の一員でもある。吉永先生のパソコンに残された未発表草稿には、一九七八年の特筆すべき出来事として「×××という異才が(U

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  • 明治40年城崎郡役所前にあった豊岡印刷所ーー『兵庫県の印刷史』を読むーー - 神保町系オタオタ日記

    寸葉さん(シルヴァン書房の矢原さん)から500円で買った絵葉書がある。兵庫県城崎郡豊岡町の郡役所前にあった豊岡印刷所から国府村の古田医院宛に送った明治40年の年賀状である。だいぶ前に買ったもので、なぜ買ったのかも覚えていない。書砦・梁山泊京都店で買った『兵庫県の印刷史』(兵庫県印刷紙工品工業協同組合・兵庫県印刷工業組合、昭和36年6月)を見たが、神戸市中心の記述で、城崎郡の印刷所についての記述はほとんど無かった。 同書63頁には、明治30年に発足した城崎郡日高町の福富印刷所について言及がある。また、大正期については、74頁に 但馬地方は、明治のころ印刷の起った出石、村岡、浜坂、江原、生野のほか、豊岡、朝来郡和田山、竹田、城崎郡城崎、香住、養父郡八鹿、美方郡湯村などにあいついで印刷を業とする者を輩出したが、その消長を明らかにする資料に乏しい。 とあるだけである。なお、巻末に組合の加入者名簿が

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  • 「蒐める人」を4500人も蒐めちゃった『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』が凄すぎる件 - 神保町系オタオタ日記

    自称「人間グーグル」のわしが、戦前の趣味人、コレクター、奇人などを調べる時にまずお世話になるのが、反町茂雄『一古書肆の思い出』全5巻(平凡社ライブラリー)である。ただし、人名索引があって便利ではあるが、各巻ごとの索引の上、著名なコレクターしか出てこない。その点、日古書通信社の『日蒐集家名簿』は無名のコレクターも多数収録され、「蒐集種目・研究事項」も記載されていて便利であった。ただ、これにも欠点があって五十音順ではなく居住地の道府県別に配列されていて、居住地が不明の場合は全道府県をチエックする必要があった。その他発行年や発行所が異なる様々な蒐集家名簿があり、これらをまとめて五十音順に並べた一覧があればとかねてより思っていた。そんな中、かつて同人誌『二級河川』13号(金腐川宴游会、平成27年)に「蒐集家人名事典(仮)・石川県編」を掲載したトム・リバーフィールド氏が『昭和前期蒐書家リスト』を

    「蒐める人」を4500人も蒐めちゃった『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』が凄すぎる件 - 神保町系オタオタ日記
  • 大正モダニズム下のプラトン社を描く永美太郎『エコール・ド・プラトーン』 - 神保町系オタオタ日記

    大正13年に『苦楽』を創刊するプラトン社を描いた永美太郎『エコール・ド・プラトーン』(リイド社)というコミックが出たというので、今読んでいます。小野高裕・西村美香・明尾圭造『モダニズム出版社の光芒:プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、平成12年)が出てから19年、とうとうプラトン社がコミックになる時代がやってきました。しかも、著者永美氏はプラトン社のあった堂島のジュンク堂書店大阪店でバイト中に同書に出会ったのが、漫画家になるきっかけになったらしい。凄い話だ。 第1集は、『苦楽』創刊に奔走する川口松太郎と直木三十五が主役で、今読んだ所までには小山内薫、岡かの子、岡一平、岡太郎、菊池寛、久米正雄、芥川龍之介、谷崎潤一郎らが出てくる。そうそう、確か高橋輝次さんが話題にされたこともあるプラトン社の編集員松阪青渓(寅之助)も登場。今後、プラトン社に集った文士・画家・編集者=エコール・ド・プラ

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  • 満洲の唐木順三とスメラ学の前波仲尾 - 神保町系オタオタ日記

    古田晁と臼井吉見とともに昭和15年筑摩書房を創業した唐木順三の評伝である澤村修治『唐木順三ーーあめつちとともにーー』が、昨年ミネルヴァ書房から刊行された。読んでみると、トンデモネタがあって驚き。唐木は、昭和5年5月三木清の斡旋で満洲教育専門学校に教授として赴任。校長は前波仲尾(まえは*1・なかお)と言うが、書には次のようにある。 満洲教育の校長は前波仲尾という老人だった。正規の学歴をふまず独学で勉強した努力家で、偏屈であるのと同時に反骨精神も旺盛。博識があり常に一家言を持っていた。ただしとにかく風変わりで、たとえば、古事記のトルコ語による解釈をして唐木を驚かせている。日語はスメール語の影響下にある、という前波独自の説からであった。(略) いや、驚きました。そんな人が満洲にいましたか。この前波、皓星社の『日人物情報大系』12巻収録の『満蒙日人紳士録』(満洲日報社、昭和4年5月)で経歴

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  • 全財産を投げ打って『欽定四庫全書総目』を買った森鴎外 - 神保町系オタオタ日記

    小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』に、徳田秋聲や谷崎潤一郎が出てくることは「上林暁と小島威彦が目撃した山田順子」と「大文豪と小島威彦・原智恵子」で紹介したところである。90歳代の小島の回想なので、時系列の混乱など必ずしも信用しがたい記述があるが、一定の事実関係は裏付けられる場合が多い。 さて第1巻(創樹社、平成7年1月)には森鴎外が出てくる。 (略)林野局の技師、金原善知夫を連想した。彼は金原明善翁の孫だと聞いている。(略)彼の許に嫁していった直子は(略)僕よりちょうど十歳も年長だったが、灘の家の近くに隠退してきた陸軍退役の依田中将の次女で、僕はまだ小学六年の正月だったが、彼女たちの百人一首の相手をつとめさせられてきた。(略)退役後は閑院宮の別当をしていたのでその息子の述少佐は宮の御落胤を女房にしていた(略)そして僕が中学の頃、鴎外を読み初めた頃*1、その父親は小倉連隊長だったが、そ

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  • 『謄写版の冒険 卓上印刷器からはじまったアート』(和歌山県立近代美術館、2013年2月) - 神保町系オタオタ日記

    名古屋の山星書店で540円。和歌山県立近代美術館で2013年2月9日から3月24日まで開催された展覧会の図録。観覧者には無料で配布されたが、私が会期末に行った時にはもう品切れであった。目次は、 はじめにーー記憶と「歴史」に映る謄写版の面影 熊田司 図版 1 謄写版のはじまり 2 謄写版の普及ーー謄写印刷業の誕生 3 謄写版の普及ーー謄写技術の研究 4 謄写版の普及ーー謄写版誌の刊行 5 戦後の謄写版誌刊行ーー『とうしゃ文化』 6 印刷術と版画技法のあいだで 7 版画技法としての謄写版へ 8 孔版画研究会「甃土会」と「点の会」 9 謄写版の時代 謄写版の歴史 志村章子 清水武次郎と謄写版 植野比佐見 年譜 30頁の冊子だが、図版も多く充実した内容。古書で入手できてよかった。知識としてしか謄写版を知らない人とは違い、謄写版で同人誌やビラを作った私らの世代にはガリ版には深い思い入れがある。そうい

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  • 「書物ブログ」の分類 - 神保町系オタオタ日記

    南陀楼綾繁『一箱古市の歩きかた』(光文社新書)で「書物ブログ」の分類がされていたので、幾つかのブログを当てはめてみた。 ・情報系 「退屈男とと街」 ・購書・読書日記系 「手当たり次第の棚」 「晩鮭亭日常」 ・古ネタ系 「古書の森日記」 「daily-sumus」 「古屋ツアー・イン・ジャパン」 「はほへほ旅日記・書物日誌」 ・調査研究系 「書物蔵」 「観覧車通信」 「森茉莉街道をゆく」 「黌門客」 ・現場系 「屋のほんね」 「古ソムリエの日記」 「古書現世店番日記」 「往来座通信」 「神保町が好きだ!」 ・著者・販元系 「を償うにをもってせよ」 「okatakeの日記」 「ナンダロウアヤシゲな日々」 「今日の平凡社」

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  • 明治39年における雑誌の発行部数 - 神保町系オタオタ日記

    『原敬関係文書第八巻』に「雑誌一覧表(明治39年9月調査 警視庁)」が収録されていて、その備考欄に各雑誌の発行部数が記載されている。そのごく一部を抜き出すと、 近事画報 三千五百部/社勢少シク衰フ 実業ノ(ママ)日 三千八百部/社勢振フ 新仏教 四百部/衰頽ノ実況ナリ 太陽 三万六千部/社勢振フ 六合雑誌 七百部/維持困難ナリ 近事画報も新仏教も衰退期の部数だが、黄金期にはどれくらいの部数だったのだろうか。 - 誰ぞの明日の予定 案の1 西部古書会館、古酒場コクテイル 案の2 岡山で再び三輪車をこぐ 案の3 満洲遠征

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  • 内務省の「子供雑誌編輯改善要項」がつぶした少年雑誌 - 神保町系オタオタ日記

    平井昌夫編の「国語国字問題年表」によると、昭和13年10月内務省は児童読物改善のため、「子供雑誌編輯改善要項」*1を指示した。内容は、小活字の使用禁止・ふりがな廃止・漢字使用制限で、昭和14年2月号の子供雑誌から適用された。この措置によって、児童雑誌は大きなダメージを受けたようだ。新井静一郎の日記*2によると、 昭和14年7月13日 博文館の道広氏が丁度来合わせていて、一緒に連れ立ってコロムバンへ行く。/道広氏が、少年雑誌にルビがつかなくなってから、売行が目だって減っていると話す。仕方がないので「新少年」は改題し、内容を一変させて、もう少し上の青年層を狙うとのことである。ルビ問題がそんなに影響しているのかと、今更のように驚く。 『新少年』は、『日児童文学大事典』によると、昭和10年4月創刊、14年8月廃刊のようだ。結局、振り仮名廃止による売り上げダウンによって、つぶされてしまったことにな

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  • 戦後新聞漢字事件簿 - 神保町系オタオタ日記

    昭和21年11月16日「当用漢字表」が公布された。「編輯」の「輯」の字が収録されていないことから、そのことだけでも新聞社では大騒ぎがあったようだ。同年12月9日六社編輯局長会議が共同通信で開催され、「集」と「修」のいずれを「輯」の代用字として用いるかを議論した。毎日新聞東京社の森正蔵の日記*1によると、 各社の意見は、朝日−東京が集で大阪、西部が修、共同−はじめ修を用いたが今では集が有力。東京新聞−集。読売−各社の決定を見てから決定。時事新報−輯を固執。そして社は東京が集をすでに用い、大阪は修を主張し、西部は大勢に従うということになっている。 そして今日の会合で出た意見は 一、「修」には官僚臭あって不可(共同、朝日高野個人の意見) 一、「修」はこの次の漢字制限で除かれるおそれあり。「集」ならばなほながい余命がある(僕の意見) 一、「集」の簡易性を尊重すべし(僕の意見) 一、「輯」にはア

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  • 日本国語会に結集した人達 - 神保町系オタオタ日記

    安田敏朗『金田一京助と日語の近代』(平凡社新書)にチラリと登場した日国語会。メンバーについては、6月12日に紹介した。 森忠『僕の詩と真実』によると、国語国字改良運動に対抗すべく同会に集まった人には、法政大学教授の大西雅雄、国学院の松尾捨次郎[ママ。正しくは松尾捨治郎]教授、浦和高校教授の藤田徳太郎、林古渓翁、大法輪社主石原利明[ママ。正しくは石原俊明]らもいた。林については、 いつか、「昔は私はこれでも“新仏教”に関係したり、ローマ字論を唱へたりしたもんですよ」と述懐してゐられたことがあつた。 日国語会のメンバーに鈴木大拙、高楠順次郎、高島米峰がいるのは、林の関係だったか。それと、漱石門下の松岡譲の名があるが、松岡は昭和7年秋から約一年間、高楠主宰の『現代仏教』の編輯主幹をしていたというから、松岡もこの仏教関係者のグループに属するか。 森は、岡田道一*1についても書いていて、

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    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/08/20
    「左横書は変態性欲」
  • 反国語国字改良運動家の戦後 - 神保町系オタオタ日記

    平井昌夫『国語国字問題の歴史』巻末の「国語国字問題年表」の昭和17年7月の欄に「島田春雄、鬼塚明治、森忠、大西雅雄等二十余名は国語国字改良反対の反動団体たる「日国語会」を発起(十一日)」とある。島田も森も、戦後、大日言論報国会理事だったことを理由に公職追放となった。 森は『僕の詩と真実』(日談義社、昭和43年7月)で島田について次のように回想している。 島田春雄氏も戦後追放令にかかって、ひどく苦労した。神社新報に社説を書かしてもらっても表向き論説委員といふわけにはいかなかった。「力が強いから、発送係りといふことになってゐた」と彼はいふ。のち日立製作の宣伝部出版課に嘱託となってゐたが、とつぜん狭心症で倒れ、東大病院に入院した。小康をえて摂生はしてゐるとはいふものの、体重も二十三貫、酒も煙草もやめようとしない。日立の重役馬場博士の依嘱で調べ物などぼつぼつやってゐた。今はそこもやめて

    反国語国字改良運動家の戦後 - 神保町系オタオタ日記
  • 2007-01-03

    最近、評伝とか、伝記とかを読むのが好き。 そのせいか、書店で皆川ゆか 『評伝シャア・アズナブル 《赤い彗星》の軌跡』(講談社)なんてのを見かけたら、思わず買いそうになってしまった。×××××ガンダム世代のわしとしては、今でもガンダム大好き。 『秋田雨雀日記』第1巻には、図書館ネタもある。 大正15年10月29日 温い。図書館の岡田健蔵、大橋君、三木君なぞがきた。また石川君の墓を訪う。墓前で撮影した。夜、商業会議所で、林、小林二新聞主筆、岡田図書係長主催の招待会にのぞんだ。非常な盛会だった。夜十一時ごろ札幌へ。 函館図書館の岡田健蔵は、二度目(9月4日参照)の登場。 「石川君」は石川啄木のこと。立待岬の墓は、私も行ったことがある。でも、啄木に興味があったわけではなく、単に「るるぶ」に名所旧跡として挙がっていたのでついでに見ただけ。 追記:何ヶ月か前に「柴田宵曲」で何件かアクセスがあったので、

    2007-01-03
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/01/03
    云はれてみれば一字違ひ。
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