タグ

ブックマーク / reminder.top (25)

  • マイページ - コラムリスト | ロニー田中 | Re:minder - リマインダー | 80年代音楽エンタメコミュニティ

    大手アパレル会社勤務後、独立して渋谷で古着屋を経営。そのかたわら “渋谷の母” として、日々悩める方々にとって頼れる占い師の顔も持つ。10代の頃から洋楽邦楽問わず、ライブ会場に足しげく通い、新宿ロフトでのBOØWYデビューライブをはじめ数々の伝説を目撃している、リマインダーのフォレスト・ガンプ的存在。 https://twitter.com/ronnietanaka

  • 全アルバム一斉配信【ザ・ルースターズ】大江慎也と花田裕之が放つ唯一無二の存在感!

    バンドが生命体であるかのように変化を厭わず、駆け抜けたルースターズ 2023年11月1日、ザ・ルースターズ(以下ルースターズ)が日コロムビアからリリースした10枚のオリジナルアルバムにライブアルバム、シングル&EPを加えた全118曲のデジタル一斉配信が開始された。バンドが生命体であるかのように変化を厭わず、駆け抜けた約8年間の軌跡は、数多くのミュージシャンがその影響下にあり、リアルタイムを知る音楽ファンのみならず、若い世代にまで、その存在感と音楽性の豊潤さはしっかりと継承されている。 デビュー期のメンバーは大江慎也(ボーカル)、花田裕之(ギター)、井上富雄(ベース)、池畑潤二(ドラムス)。1974年に池畑らが結成したバンド ”薔薇族” に大江が加入、その後大江、池畑は “人間クラブ” 結成に参加。これを母体として1979年にザ・ルースターズは結成される。そして1980年11月1日、シング

    全アルバム一斉配信【ザ・ルースターズ】大江慎也と花田裕之が放つ唯一無二の存在感!
  • カタリベ一覧 | Re:minder - リマインダー | 80年代音楽エンタメコミュニティ

    © Reminder Inc. All Images used on this website are the copyright of the respective copyright holder and are used on this site for educational or promotional purposes only.

  • 日本が誇るトップギタリスト【佐橋佳幸の音楽物語】サハシなくしてJ-POPは語れない!

    佐橋佳幸の仕事 1983-2023 vol.1 変幻自在に音楽活動を繰り広げてきた佐橋佳幸デビュー40周年 ギタリスト、アレンジャー、プロデューサー、そして時にはシンガーソングライターとして八面六臂の活躍を続ける佐橋佳幸。高校時代に結成したバンド “UGUISS” を率いて1983年9月にエピック・ソニーからデビューを飾って今年でちょうど40周年を迎えた。 小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」のイントロで聴かれる超有名なカッティング・フレーズはもちろん、山下達郎、佐野元春、桑田佳祐、藤井フミヤ、そして公私にわたるパートナーである松たか子など、それこそ無数のアーティストたちを幅広くサポートしてきた彼のギターの音色を耳にしたことがない人など1人もいないはずだ。 とはいえ、その活動があまりにも多彩かつ多岐にわたるためか、彼の仕事ぶりの全貌が語られる機会は意外と少ない。誰もが知っているようで知ら

    日本が誇るトップギタリスト【佐橋佳幸の音楽物語】サハシなくしてJ-POPは語れない!
  • 友達がイカ天に出た! マサ子さんにまつわるエトセトラ

    先日、NHK の朝ドラ(時代設定が80年代)を観ていたら、主人公が「イカ天で好きなバンドは、マサ子さん!」と力説していて、思わず「おお!」と叫んでしまった。 SNS でも反響があったらしく「マサ子さん」は一時トレンドワードの仲間入りを果たしたようだ。様々なつぶやきを読みながら、切ないような誇らしいような、不思議な気持ちになった。 マサ子さんとは、元ナゴムギャルのマユタン&サブリナ姉妹で結成され、イカ天に出演して一世を風靡した(?)、ニューウェーブ系ガールズバンドのこと。私にとっては大学時代の大切な友達のバンドである。 友達の名前は、サブリナ・ブルネイ(芸名)と言う。 サブちゃんとの出会いは1986年、大学の入学式。私の目に飛び込んできた彼女は細い体でニコニコして、一見たおやかそうに見えた。が、話してみたら結構邪悪(褒め言葉)。 音楽やカルチャーが好き、特にゴダイゴ LOVE という共通点が

    友達がイカ天に出た! マサ子さんにまつわるエトセトラ
  • 井上陽水はプログレだった? アルバム「氷の世界」に漂うキング・クリムゾン感

    井上陽水「氷の世界」に入り込んだプログレ人脈 2022年8月30日をもって74歳になる井上陽水に関して、ほとんどのことが語られ尽した感もある。とはいえサイゾーWEBに「井上陽水とアンビエント」という野心的な記事が掲載されているのを見つけて、まだまだ斬新な切り口はあるのだなと感心した。そこで今回のコラムでは変わった角度から、すなわち「初期の井上陽水はプログレ」(!)という一部プログレッシャーの間でまことしやかに囁かれてきた噂を検証してみたいと思う。 この俗説が浮上した要因は、日初のミリオンセラーを達成した陽水の三枚目のアルバム『氷の世界』(1973年)にあると思しい。作はポリドール・レコードの多賀英典の判断で半分ほどの楽曲がロンドン・レコーディングされたのだが、セッションミュージシャンとして雇われたのがほとんど当地のプログレ人脈なのだ。 クォーターマスという、アルバム一枚を残してすぐ解散

    井上陽水はプログレだった? アルバム「氷の世界」に漂うキング・クリムゾン感
  • 梅津和時が語るRCサクセション ② ライブ本数年間100本!武道館も出発点

    『梅津和時が語るRCサクセション ① やっぱり特別!久保講堂ライブ「RHAPSODY」』からのつづき 「俺、カッコいい!」、「俺、最高!」ツアー中のRCサクセション ― さらにライブも80年に久保講堂があって81年に武道館。会場がどんどん大きくなっていきました。 梅津:その期間が1年半しかないと思うと、ちょっと不思議ですね。その時期は自分のバンドも解散の方向へ向かっていく状況だったし、個人的にも海外に行くのも増えたし、色々な変化がありました。と言いながら、RCはどこでライブをしても楽しかったしね。各地を周って、当時はまだ貧乏旅行だったので、そこも面白かったですね。 例えば、関西だと、打ち上げで珉珉(みんみん / 中華料理店)に行って餃子が出てくるのが嬉しかったとかね。 ― 機材車で行ったりとかですか? 梅津:いや、僕らは新幹線に乗っていました。「すげー、新幹線で行けるんだ」と感動していまし

    梅津和時が語るRCサクセション ② ライブ本数年間100本!武道館も出発点
  • 梅津和時が語るRCサクセション ① やっぱり特別!久保講堂ライブ「RHAPSODY」

    1980年4月5日。アルバム『RHAPSODY』のライブレコーディングありきで行われたRCサクセション久保講堂公演。ここから濃密な時間を過ごし、ライブ、レコーディングと行動を共にするようになったジャズミュージシャン梅津和時。RCサクセション、忌野清志郎の軌跡を語る上で欠くことのできないキーマンである梅津が、当時を振り返り、バンドの内情、音楽性が深化してゆく過程を余すところなく語ってくれた。全音楽ファン必読のロングインタビューです。 清志郎との初めての出会い“栗原清志とオールスターズ” ― 今回は先日RCサクセションの1981年武道館公演と1983年の渋谷公会堂公演という2の映像が配信されまして、そのあたりの話が中心になります。よろしくお願いいたします。 まず、梅津さんが、RCサクセションのサポートに入る前のお話をお聞かせください。 梅津和時(以下梅津):ニューヨークから日に戻ってきて、

    梅津和時が語るRCサクセション ① やっぱり特別!久保講堂ライブ「RHAPSODY」
  • 広石武彦に訊くUP-BEAT ① 結成40周年!北九州の音楽事情とデビューまでの道のり

    1981年結成、86年デビュー。デビュー以降9年間の活動期間には、あらゆるジャンルのロックを飲み込み、唯一無二の存在感を放つ。90年代以降の日のロックバンドの礎を築いたその音楽性は、今も孤高の輝きを放つ。解散から四半世紀という時を経て2022年4月27日には全シングル18枚、38曲を完全収録した『BEAT-UP ~UP-BEAT Complete Singles~』がリリースされる。デジタルリマスターで蘇る名曲の数々。 今回のリリースを記念して、UP-BEATのフロントマンであり、数多くの楽曲を手掛けた広石武彦に、結成前から現在に至るまでの音楽遍歴とUP-BEATの全貌について話をうかがった。全3回のロングインタビューです。 第1回 北九州の音楽事情とUP-BEATデビューまでの道のり 北九州の豊潤な音楽的土壌 ― UP-BEATは結成40周年を迎えるということですね。 広石武彦(以下、

    広石武彦に訊くUP-BEAT ① 結成40周年!北九州の音楽事情とデビューまでの道のり
  • TRF・DJ KOO インタビュー ④ 国民的大ヒット trf から昭和ジェネレーションパラダイスへ

    第4回 DJ KOOのスタンス。アフリカの空に響く「川の流れのように」 TRFのDJとしてのスタンス ― KOOさんにはDJが裏方という意識もあったと思います。それがDJというスタンスのままでバラエティ番組などにもたくさんお出になるようになって…。TRFの国民的ヒットからご自身のスタンスが変わっていった部分はありますか。 KOO:やはり、クラブのDJをずっと仕事にしてきて、小室さんもその辺を理解してくれていて、「KOOちゃんの仕事というのは1時間なりのパートの中で選曲をして、お客さんを躍らす踊らすことだと思うけど、1曲3分の中で、どうにかDJの良さを出してくれ。それを考えて」という風に言われましたね。だから僕は裏方の楽曲制作に携わりながら、曲が出た時点で僕の仕事は完成してる意識だったんですよ。それが今度、楽曲が出来上がった上で何をやるかというのがテーマでしたね。パフォーマーとして。小室さん

    TRF・DJ KOO インタビュー ④ 国民的大ヒット trf から昭和ジェネレーションパラダイスへ
  • TRF・DJ KOO インタビュー ③ ディスコを操る必殺技、キラーチューンからチークタイムまで

    第3回 キラーチューンからチークタイムまで。80年代ディスコミュージックの楽しみ方 アゲる時にはJ-POP! ― J-POPが盛り上がるにも選曲するDJのセンスによる部分も多いと思います。 KOO:当時のディスコのワンパートの流れって、チークタイムがあったので、チークタイムの後の一発目が、お客さんをわーっと集める曲で、どんどんキープしながらピークを作るという選曲をしていました。で、ピークを作って、さらにアゲる時にはJ-POPでした。 ― そこで最高潮にいくんですよね。 KOO:ドゥービー・ブラザーズの「ロング・トレイン・ランニン」やボーイズ・タウン・ギャングの「君の瞳に恋してる」でガーッと上がって、さらに上げるために、禁じ手を使う感じでJ-POPをバーンとぶち込むとめちゃめちゃ盛り上がりましたね。 途中であけるというよりも、「もう何でも踊るぜ!」っていうタイミングでかけるのがJ-POPのヒ

    TRF・DJ KOO インタビュー ③ ディスコを操る必殺技、キラーチューンからチークタイムまで
  • TRF・DJ KOO インタビュー ② 時代はサーファーブーム、ロック少年から新宿のディスコDJに!

    第2回 ロック少年から新宿のディスコDJへ。当事者だから語れる80'Sディスコ事情のリアリティ お客さんが主役! 第1期サーファーブームのディスコ事情 ― ちなみにDJされていたのは、どこのディスコですか? KOO:カンタベリーハウス、ギリシャ館でした。 ― 歌舞伎町のディスコビル、東亜会館の中ですよね。その頃っていうのはサタデーナイト・フィーバーとか? KOO:もうちょっと後で、当時、アラベスクやノーランズなどのキャンディポップが流行ってたりもしながら、第一期サーファーブームとクロスした時期ですね。だからYMOとかブロンディの「コール・ミー」とか、そういうのも全盛で流行っていた一方でクール&ザ・ギャングやアース・ウィンド&ファイヤーなんかのブラックコンテンポラリーが盛り上がってきた時期ですね。まさに80年ぐらいですね。 元々新宿のディスコではアラベスクの「ハローミスターモンキー」とか、そ

    TRF・DJ KOO インタビュー ② 時代はサーファーブーム、ロック少年から新宿のディスコDJに!
  • TRF・DJ KOO インタビュー ① 音楽のルーツは昭和歌謡、その後はハードロック一直線!

    新宿のディスコからご自身のキャリアをスタートさせ、TRFで国民的ヒットを連発。現在では業の傍ら数々のバラエティ番組にも出演するDJ KOO。DJという職業を全国的に認知されたその功績は計り知れない程大きい。5月28日はこれまでのDJとしてのキャリアを集大成したイベント『昭和ジェネレーションパラダイス』が開催される。このタイミングに音楽と共に生きたDJ KOOの半生を語っていただくロングインタビューが実現。生粋のエンターテイナーの音楽的背景と当事者が語るディスコカルチャーのすべてがここにあります。 第1回 ロック少年からディスコDJへの転機 幼少期の音楽体験 ― 今回は新宿のディスコでDJをやられていた話と開催が間近にせまるイベント “昭和ジェネレーションパラダイス” についてなど、80年代から現在に至るまでのKOOさんのスタンスや活動歴についてもお聞きできればと思います。 DJ KOO(

    TRF・DJ KOO インタビュー ① 音楽のルーツは昭和歌謡、その後はハードロック一直線!
  • フリッパーズ・ギターとオレンジ・ジュース、蘇る高田馬場「オーパス・ワン」の記憶

    鮮やかに蘇る五感の記憶 年を取ると忘れっぽくなる一方で、五感の記憶は昨日のことのように鮮やかに生々しく覚えていて蘇ってくる。 彼との出会いは残念ながらうろ覚え… 確か救世軍のバザーでレコードを見てる時に向こうが話しかけて来たのがきっかけだった。それ以来、名前も知らない彼とは屋やライブ、映画館で何度も偶然会うので会釈したりする仲になった。ソフトな口調で優しい物腰だが、見た目はガリガリに痩せて、長身で、大概ランニングに大きなオーバーオール、眉毛を剃っている彼は何処にいても目立っていた。 1年くらい経った時に初めて彼がフルネームを教えてくれたため、私も自己紹介した。それまで勝手に劇団員かダンサーかバンドマンかと思っていたら、Y君と言って私より年上で大学院生で青山に住んでることが判明。その時初めて電話番号を交換し、よく遊ぶようになった。一日中レコード屋や古着屋を回り、彼の家でご飯をべて始発まで

    フリッパーズ・ギターとオレンジ・ジュース、蘇る高田馬場「オーパス・ワン」の記憶
  • ブルース・スプリングスティーンのCDが全品回収?ディレクターの衝撃告白!

    いざカミングアウト! 私がやっちまった校正ミスや商品事故 ちょっとした校正ミスから商品事故まで。ディレクター時代、色々とやっちゃいました。 洋楽のディレクターの仕事の最終目標は、その担当したアーティストのレコードなりCDを日国内でどれだけ沢山売ってあげるか、ということですが、我々はメーカーであり職種は制作業務ですから、具体的な仕事の第一は “健全な商品を発売日に向けてつくりあげること” に他なりません。 店頭に並んだものの、ある事情があって回収せざるを得なかったり… とか発売日前に何かが起きて、商品を作り直す必要があった… などということは、あってはいけませんが、沢山の商品を出していると残念ながら、このテのトラブルは大なり小なり起きていました。 校正ミス程度の軽微な場合は、追加プレス時の修正で対応しますが、ミスったその箇所がシリアスな場合には、商品を一旦回収して作り直すとか、最悪の場合に

    ブルース・スプリングスティーンのCDが全品回収?ディレクターの衝撃告白!
  • 臭いものに蓋をするな!発売禁止になった白竜の「光州シティ」と小室哲哉

    いつどこで手に入れたのか定かではない一枚のモノクロ写真が僕の「80年代の思い出段ボール箱」から出てきた。 上の画像にある白竜バンドの写真がそれだ。若々しいなぁと思いながら中央にいる白竜から目を右にずらしていくと、一番右端にどこかで見たことがある顔が見つかると思う。 若き日の小室哲哉だ。 ムム〜だいぶ感じが違うなぁ。小室哲哉は TM NETWORK 以前、様々な人のバックバンドやスタジオミュージシャンとして活動してきたらしく、白竜バンドもその中の一つだったのだろう。 白竜の1stアルバム『光州シティ』には小室哲哉の名前がクレジットされている。元々このアルバムは “シンパラム” というタイトルで発売を予定していたのだが、収録曲の「光州シティ」の歌詞の影響で発売禁止となり、しばらくの間、自主制作盤としてライブ会場だけで売られていたという曰く付きのアルバムでもある。 発売禁止の原因になった「光州シ

    臭いものに蓋をするな!発売禁止になった白竜の「光州シティ」と小室哲哉
  • reminder

    © Reminder Inc. All Images used on this website are the copyright of the respective copyright holder and are used on this site for educational or promotional purposes only.

    reminder
  • ブラックミュージックとしてのジョイ・ディヴィジョン、ブルー・マンデーを超えて

    ジョン・サヴェージ『この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも―― ジョイ・ディヴィジョン ジ・オーラル・ヒストリー』(Pヴァイン)という、じつに長い、たぶん記憶不可能な(?)タイトルのを版元より賜った。前回「ゴス」の観点からザ・キュアーについて書いてみたので、「ゴシック調のダンスミュージック」とも形容されたジョイ・ディヴィジョンについて、改めて考えてみようかと思う。 地の文なし、すべて関係者のコメントや当時のレヴューから構成されているだが、著者サヴェージの巧みな文章配列もあってまさに「ヒストリー」として立体的に浮かび上がってくるので、集中途切れることなくまったく飽きさせない。 グラント・ジー監督の『ジョイ・ディヴィジョン』という伝記映画撮影の際に行われたインタヴューがその大部分らしいが、映画に使われたのがほんの氷山の一角に過ぎなかったことが分かる圧倒的情報量だ。 この

    ブラックミュージックとしてのジョイ・ディヴィジョン、ブルー・マンデーを超えて
  • やくざ映画のニューウェイブ、金子正次の「竜二」と 萩原健一の「ララバイ」

    奇しくも同じ命日、松田優作と金子正次 33歳という若さで癌のためこの世を去った俳優、金子正次。 彼の唯一の主演作品『竜二』は松田優作、萩原健一という、男が惚れる日を代表する2人のアクターの力添えもあって、公開年に数々の賞に輝き、今なお多くのファンに語り継がれている。 この映画が封切りされたのが、1983年10月29日。金子は、その1週間後の11月6日にこの世を去ってしまった。奇しくも盟友、松田優作と同じ命日。松田はこの6年後、89年に鬼籍の人となる。 スタッフの手弁当で撮影がスタートしたというこの作品。その配給先を探すために奔走したのは松田優作。また、金子が主題歌に「ララバイ」を使用することを萩原に依頼したところ、自主制作にも関わらず、二つ返事で快諾したという。 日常に寄り添って描かれたやくざ映画「竜二」 公開された劇場は新宿東映ホール2。確か50人も入れば満席になる小さな劇場だ。『竜二

    やくざ映画のニューウェイブ、金子正次の「竜二」と 萩原健一の「ララバイ」
  • くじらが捉えたヨーロッパの感覚、音に奥行きが出たパリのレコーディング

    1986年、私にとっての初パリは、そんなにいい街じゃなかったなぁ。 ざっと眺める街の外観は、歴史の長さと重さを、否が応でも感じさせずにはおかない、それは立派なものですが、足元に目をやると、歩道には犬のウンチがあちこちに。 カフェに座って、道行く人を眺めていると、さすが、見目麗しきパリジェンヌが多い。しかし、もちろん確認したわけではありませんので、予め暴言であると認めますが、美しい女性は、(肌の感じなどから想像するに)20歳以下ばかり、あとは野となれ山となれって感じ。 スタジオやホテルは別ですが、なんだか英語を話してくれない、というか受けつけてくれませんでした。カフェの店員に、「カフィ」とか「ビア」と言っても「はぁ?」って顔をされる。仏語(風)で、「キャフェィ」(語尾を下げない)、「ビエール」(ルは巻き舌ね)と言えば、うなずいてくれますが、それくらいの英語、分からないわけがないでしょ! 絶対

    くじらが捉えたヨーロッパの感覚、音に奥行きが出たパリのレコーディング