明治期の皇典講究所・國學院では、日頃の学術研究の成果や知見について、これを書籍として編纂・刊行し、社会へと還元することがその事業の柱石の一つとして位置していた。もっとも、皇典講究所は創設からわずか3年後には、その財政は「甚不都合之至ニ有之候、……前途甚不安心之儀候ニ付」(明治18〈1885〉年)といわれるほど困難な状況にあった。明治期皇典講究所・國學院における書籍編纂・出版事業には、一方で財政困窮の挽回のための方策という側面もあったことは否定できない。 例えば、國學院設置に重大な役割を果たした山田顯義(皇典講究所所長・司法大臣)は、財政的に「(皇典講究所が)将来維持の方法困難」であることを看破していた。そこで事業拡張の協議会を催し、①國學院・日本法律学校設置の他、中等学校と師範学校の教員資格取得、②国体および固有倫理にかんする教科書の編纂、③新聞雑誌による宣伝、④通信教育導入と校外生募集な