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映画とアニメ評に関するhhasegawaのブックマーク (7)

  • CinemaScape/ヤマカン

    いつの間にか随分と名が知られるようになりました。批評が業になりつつあるのでここに書き込むことは少なくなるでしょうが、今後もよろしくお願いします。

    hhasegawa
    hhasegawa 2019/03/12
    今後アニメ業界から消えていくかもしれぬ破産監督を偲び、いかにも(出身と別の大学の)元総長に人生を狂わされた軌跡がうかがえる投稿一覧を読む。いま話題の本で取り上げられた『近松物語』には満点がついていた。
  • Der japanische Trickfilm „Puella Magi Madoka Magica: Rebellion“ interpretiert den „Faust“ buddhistisch

    F.A.Z. QuarterlyInspirationen und Denkanstöße für die Welt von Morgen

    Der japanische Trickfilm „Puella Magi Madoka Magica: Rebellion“ interpretiert den „Faust“ buddhistisch
    hhasegawa
    hhasegawa 2016/02/12
    『叛逆の物語』ドイツ語版DVD発売につき、FAZ紙に『まどマギ』TV版も含め批評が出ていた。ゲーテの引用、画面上の象徴、物語の構造をきちんと解読し、なかなか模範的。高級紙はこれくらいやってくれてよい。
  • 映像を観る才能の無い奴が脚本や思想の批評に行き着く - 17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード

    こんな嫌がらせの書き散らしを始めた一環でアニメの批評関連を目にするとなにやら一見人文・思想系の文体で綿密な批評っぽく見えるがその実トホホなかんじを覚えるようなものが多い。それらは極端であるにしても、たいていの批評やらのほとんどが作品をテキストの拡張としてしかアクセスしない(できない)せいでそう見えるんだと思う。 日アニメの解釈は、脚や原作漫画が声優やBGM、動画が付いてより解釈しやすくなったテキストの拡張というレベルで観るか、きっちり映像で観るかで分かれるが、あんまりにも前者が多すぎ、後者の解釈は作画という一部分に偏りがちな歪さがある。前者の批評の流れを作ったのは何やら思想の地図がどうたらのあの辺で、後者はスターアニメーターどうたらを取り上げるメディアあたりだろうか? アニメスタイル004 (メディアパルムック) 作者: 小黒祐一郎編 出版社/メーカー: メディア・パル 発売日: 20

    映像を観る才能の無い奴が脚本や思想の批評に行き着く - 17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード
    hhasegawa
    hhasegawa 2014/09/24
    「デザインとアニメートそのものの中にアニメの全てがある」とあるが、視覚面とテクスト面は切断できるものなのか? 例えば蓮實重彦の場合、説話論的分析も実際には行うことが表層を語る前提となっていると思うが。
  • 『映画 けいおん!』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん!論争」

    「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります」 目の前でiPadを操作しているインタビュアーに、宮崎駿はこのように言い放った。 そして、「これはツールであり、資料を取り寄せ調べることも出来る」というインタビュアーに対し、こう付け加えた。 「あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」 この、いささか不当にも聞こえるハイテクツール批判に根ざした宮崎駿の考えというのは、インターネットによって得られていると思っている知識が、現実から直接与えられるあれこれに比べ

    『映画 けいおん!』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん!論争」
    hhasegawa
    hhasegawa 2014/06/12
    「力強い作劇や、テーマ性を打ち出すことを目指しているようには全く見えない」毎度のことながら、スペクタクルの刺激に慣らされた愚劣な頭が微細なドラマを見ることができない精神薄弱を告白するだけではないのか?
  • 月に帰るクィアな処女〜『かぐや姫の物語』 - Commentarius Saevus

    『かぐや姫の物語』を見てきた。話は誰でも知ってる『竹取物語』だし、絵画的な魅力の詰まった画面の処理とかフェミニズム的な物語、仏教的な要素などについては既にたくさんレビューが出ているのでもうあまり書くこともないだろうと思うのだが、ひとつ気付いたのはかぐや姫っていわゆるひとつの「クィアな処女」だったということである。今まで全然そういうことは考えたことなかったのだが、月の人で結婚を拒むという明らかな特徴があるのになんでそんなことに気付かなかったんだろう。 「クィアな処女」(queer virgin)というのはTheodora A. Jankowski, Pure Resistance: Queer Virginity in Early Modern English Drama (University of Pennsylvania Press, 2000)に出てくる概念である。ジャンコウスキの定

    月に帰るクィアな処女〜『かぐや姫の物語』 - Commentarius Saevus
    hhasegawa
    hhasegawa 2014/01/12
    この映画のかぐや姫は帝は拒絶しても最終的に性的なもの自体を拒絶しはせず、むしろ反性的な月の秩序とのあいだに対抗関係が成立するのでは。私の解釈はこの(http://bit.ly/1agiL5a)通り。
  • かぐや姫の物語

    北守 @hokusyu82 かぐや姫の物語を見てきました。とりあえず天皇が気持ち悪いセクハラオヤジとして描かれていたのが良かったです。 2013-12-14 18:08:12 北守 @hokusyu82 日のアニメ業界の中で、天皇制という根源的問題に真正面から取り組めるのは高畑勲ぐらいしかいないですからね。後継者がいないのはつくづく残念ですね。 2013-12-14 19:03:14

    かぐや姫の物語
    hhasegawa
    hhasegawa 2013/12/20
    漂浪(@hyoulou)氏が、先日の私のツイートを含む『かぐや姫の物語』感想まとめを作成してくださいました。映画鑑賞後などに(いわゆるネタバレ配慮はしておりませんので)ご笑覧いただけましたら幸いです。
  • 円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去

    ―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。 ―カール・シュミット 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」とし

    円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去
    hhasegawa
    hhasegawa 2013/12/08
    『まどマギ』というゲルマニスト的作品を、バッハオーフェン、クラーゲス、ベンヤミンの母権論の系譜から解読する(しかも最新研究に目配りを欠かさない)点で、今後も言及され続ける画期的批評となることであろう。
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