いつの間にか随分と名が知られるようになりました。批評が本業になりつつあるのでここに書き込むことは少なくなるでしょうが、今後もよろしくお願いします。
いつの間にか随分と名が知られるようになりました。批評が本業になりつつあるのでここに書き込むことは少なくなるでしょうが、今後もよろしくお願いします。
こんな嫌がらせの書き散らしを始めた一環でアニメの批評関連を目にするとなにやら一見人文・思想系の文体で綿密な批評っぽく見えるがその実トホホなかんじを覚えるようなものが多い。それらは極端であるにしても、たいていの批評やらのほとんどが作品をテキストの拡張としてしかアクセスしない(できない)せいでそう見えるんだと思う。 日本アニメの解釈は、脚本や原作漫画が声優やBGM、動画が付いてより解釈しやすくなったテキストの拡張というレベルで観るか、きっちり映像で観るかで分かれるが、あんまりにも前者が多すぎ、後者の解釈は作画という一部分に偏りがちな歪さがある。前者の批評の流れを作ったのは何やら思想の地図がどうたらのあの辺で、後者はスターアニメーターどうたらを取り上げるメディアあたりだろうか? アニメスタイル004 (メディアパルムック) 作者: 小黒祐一郎編 出版社/メーカー: メディア・パル 発売日: 20
「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります」 目の前でiPadを操作しているインタビュアーに、宮崎駿はこのように言い放った。 そして、「これはツールであり、資料を取り寄せ調べることも出来る」というインタビュアーに対し、こう付け加えた。 「あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」 この、いささか不当にも聞こえるハイテクツール批判に根ざした宮崎駿の考えというのは、インターネットによって得られていると思っている知識が、現実から直接与えられるあれこれに比べ
『かぐや姫の物語』を見てきた。話は誰でも知ってる『竹取物語』だし、絵画的な魅力の詰まった画面の処理とかフェミニズム的な物語、仏教的な要素などについては既にたくさんレビューが出ているのでもうあまり書くこともないだろうと思うのだが、ひとつ気付いたのはかぐや姫っていわゆるひとつの「クィアな処女」だったということである。今まで全然そういうことは考えたことなかったのだが、月の人で結婚を拒むという明らかな特徴があるのになんでそんなことに気付かなかったんだろう。 「クィアな処女」(queer virgin)というのはTheodora A. Jankowski, Pure Resistance: Queer Virginity in Early Modern English Drama (University of Pennsylvania Press, 2000)に出てくる概念である。ジャンコウスキの定
北守 @hokusyu82 かぐや姫の物語を見てきました。とりあえず天皇が気持ち悪いセクハラオヤジとして描かれていたのが良かったです。 2013-12-14 18:08:12 北守 @hokusyu82 日本のアニメ業界の中で、天皇制という根源的問題に真正面から取り組めるのは高畑勲ぐらいしかいないですからね。後継者がいないのはつくづく残念ですね。 2013-12-14 19:03:14
―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。 ―カール・シュミット 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」とし
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