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ブックマーク / mb101bold.cocolog-nifty.com (10)

  • 今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    何を言うんだろうなあ。 いろいろ難しいなあ。社会も広告も、ここ10年くらいでずいぶん変わったからなあ。これ、ほんとに変わったなあと思うんですよ。たとえばね、この文章を読んでくれてますよね。どうも、ありがとうございます。文章は読まれてなんぼなので、すごくうれしいです。でもね、これはよくよく考えてみると、この文章を読んでもらってるというのは、そのぶんほかのものを見たり聞いたり読んだりできなくなっちゃってるってことなんですよね。時間は誰でも平等に1日に24時間しか与えられてないですから。 これ、10年くらい前では考えられなかったことなんですよね。もちろん、その頃も同人誌とかはあったよ。でもね、同人誌って手に入れるのに、ちょっと努力がいるじゃないですか。でも、このブログを読むのに努力はあまりいらないですよね。RSSに登録してもらってたら、更新の度にリアルタイムでお知らせが来ますし、ときには、twi

    今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • ここ数日のこと - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    ブロガーなんだし、地震発生からこれまでのことを、自分のためにも備忘録として記録しておこうと思い、エディタを開いた瞬間、また大きな揺れ。震源は静岡東部。震度6強。東北地方太平洋沖で発生した地震だけど、今回は広範囲で次々と地震が起る。twitterでフォローしている方に、仙台在住の方もいる。お会いしたこともないし、やりとりもしたことはないけれど、たまに私のブログやツイートの言葉について言及してくださるので前から気になってはいて、その方のアカウントページを覗いては現状を確かめたりしている。現在進行形の被災の姿がそこにあって、胸が痛む。 11日の地震発生時、東京の勤務先にいた。強烈な横揺れだったけれど、感覚的には阪神淡路大震災に大阪で感じた揺れよりも若干弱く、その分、妙に落ち着いた気持ちでいた。不謹慎かもしれないが、この揺れではまだ大丈夫。そんな感覚があった。 twitterにアクセス。阪神淡路大

    ここ数日のこと - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    hyougen
    hyougen 2011/03/16
  • 子供をなめるな - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    前にも書いたような気がするけれど、子供をなめちゃいけないということを思うようになったきっかけに、「銀河鉄道の夜」というアニメ映画のことがあります。1985年制作で、細野晴臣さん音楽、別役実さん脚、杉井キサブローさん監督。原作は、もちろん宮沢賢治の童話ですが、ますむらひろしさんの漫画が原案になっています。 ますむらひろしさんの「銀河鉄道の夜」は、主要な登場人物が二足歩行するとして描かれ、その漫画を原案とする映画版もそれにならっています。この設定は、ますむらさんが漫画化するときに、宮沢賢治の親族の方の反発や、研究者の方々の批判もあり、ますむらさんが説得にあたられたと「イーハトーブ乱入記 - 僕の宮沢賢治体験」というに書かれていました。 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という作品が持つファンタジー性をビジュアル化する方法論としては、擬人化されたで描くという手法は、ある意味では正攻法であり、それ

    子供をなめるな - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • タレント広告のリスク - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    の多くのテレビCMはタレント広告です。その中には、タレントがタレントとして商品なりブランドなりをお薦めするものもあれば、タレントがストーリーの中の登場人物として演じる場合もあります。前者の積極的なタレント起用の場合はもちろん、後者の場合でも、タレントさんが不祥事を起こしてしまうと、広告が取りやめになることが多いのが、残念ながら現在の風潮です。 今回の草彅さん泥酔の件でも、ほぼすべての広告が取りやめになりましたし、彼の出演する番組が差し替えられたりしました。私の個人的な感想ですが、今回は草彅さんにとっては不運だったように思います。出来事としては、まあ酒にまつわる失敗でもあるし、日常でもよくあることだと思うのですが、なにせ内容が、ネタとしてキャッチーでした。芝生で全裸ですもの。しかも、あの草彅さんが、という感じで、これはもう、逮捕うんぬんでなくても、今の時代では同じことが起こっていたと思い

    タレント広告のリスク - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • 「なにわ遊覧百貨店」の末路 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    そごう心斎橋店をセブン&アイ・ホールディングが売却を決めた(参照)とのこと。フランク永井さんのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の有楽町そごうは、ずいぶん前にビッグカメラになっていて、なんか切ないですね。 2000年にそごうが破綻して、店である心斎橋そごうはしばらく閉店していました。2005年の心斎橋そごう再開時、宮沢りえさんを起用して「なにわ遊覧百貨店」として大々的にアピールしたけれど、大阪の人たちは、そんなそごうを支持しなかったようです。 景気のせいでもありますが、それだけとも言えない部分があります。大阪の心斎橋地区は、わりと活況ですし、御堂筋沿いには高級ブランド店が軒を連ね、周辺のアメリカ村や南船場、堀江には個人経営のカジュアルなブティックが集まっています。心斎橋そごうのお隣の大丸心斎橋店は、不況のあおりは受けていますが、不調は不況によるものに限定されているようです。 私が子供の頃

    「なにわ遊覧百貨店」の末路 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 新聞 都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞

    広告媒体として見たときの全国紙というのは、じつは首都圏および関西圏の広告メディアであって、案外、新聞というのは全国を包括するメディアではないということは言えるかもしれません。引用のデータ(参照)は昨年3月のデータらしいですが、このシェアに関しては大きな変動はないと思います。新聞名は、その都道府県のトップシェア紙、%はシェア(その新聞の世帯普及率)、続いて発行部数です。 北海道   北海道新聞   49.3% 123万部 青森県   東奥日報    47.8   26万 岩手県   岩手日報         47.6   23万 宮城県   河北新報         57.05   50万 秋田県   秋田魁新聞   64.68   26万 山形県   山形新聞    55.72   23万 福島県   福島民報    42.48   31万 茨城県   読売新聞    42.08   43

    ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 新聞 都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞
  • ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 糸井重里さんの重さ

    コピーライターの時代がありました。言葉を武器に、ひたすら言葉が紡ぎ出す世界を付加価値にして、コピーライターという職業は時代の寵児になっていきました。いま思えば、それはバブルだったのかもしれません。その付加価値には、きっと広告が含まれていなかったのだと思います。小説家、詩人、作詞家、そして、コピーライター。言葉のプロフェッショナルを指向してはいても、それは広告のプロフェッショナルを指向してはいませんでした。 けれども、あの時代はそれでよかったのでしょう。それでもものが売れました。あの時代から少したって、つまり、バブルが崩壊する真っ最中に、私はコピーライターになりました。CIプランナーからの転身だったので、時代の寵児としてのコピーライターにはあまり興味はありませんでした。うまいコピーはうまいと思いますが、そこに憧れはなかったような気がします。 そんな中、これはまいったなと唸らせられたのは、糸井

    ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 糸井重里さんの重さ
  • ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): なぜ吉野家は食券機を置いていないのか。

    有名な話ですのでご存知の方も多いかと思いますが、吉野家に券機が置いていなくて、代金後払いなのは、べ終わって店を出るお客様に「ありがとうございました。」の挨拶をする機会を店員さんが逃さないようにするためなんですね。 券制や料金前払い制は効率がいいのですが、店員さんが用事をしている間にお客さんが店を出ると、挨拶する機会を逃してしまいます。ラーメン屋さんなんかで店を出るとき無言なことってよくありますよね。まあそんなもんかなと思うので、あまり不愉快にはなりませんが、客としては「ありがとうございました。またどうぞ。」なんて言われるほうが気分はいいですものね。 バブルの頃、さかんにCI=Corporate Identityが重要だと言われました。CIは、大きくVI=Visual Identity(視覚的なアイデンティティ:ロゴとかシステムデザインとか)とBI=Behavior Identity(

    ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): なぜ吉野家は食券機を置いていないのか。
  • 広告の終わりのはじまり - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    マドラ出版の「広告批評」が来年の4月で休刊とのこと。30周年を期にしての決断だそうです。広告批評の公式ウェブサイト(参照)にお知らせがひっそりと掲載されています。テキストではなく、くせのある明朝体フォントで丁寧に組まれた文章をGIF画像にしたものであることが、なんとなく今の時代に対してのひとつのスタンスであり、ささやかな抵抗であるような気もします。ちょっと深読みに過ぎるかもしれませんが。 創刊した一九七九年と言えば、テレビCMを中心に、広告が大きな転換期を迎えた年です。マスメディアの中で巨大化していく広告を、暮らしの視点から、あるいは大衆文化の視点からどうとらえ、どうみんなの話題にしていくか。現代の「広告評判記」をどうつくっていくか。そんな思いで走りつづけた三〇年だったと感じています。 そしていま、広告はマスメディア一辺倒の時代からウェブとの連携時代へ、ふたたび大きな転換期を迎えています。

    広告の終わりのはじまり - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    私のいる広告業界の現場でよくある風景。 社内ミーティング。ある仕事で、クリエイティブが徹夜でつくった広告案を見た営業が、腕を組み、押し黙ってしまいました。重い沈黙。その沈黙を切り裂くように、営業が一言。 「なんて言うか、コピーが違うと思うんだよ。」 一通りの押し問答のあと、結局、作り直すことに決まり、それぞれが作業に。コピーライターは顔に悔しさをにじませて、ひとり作業室の中で言葉を吐き捨てます。 「何もわかってないくせに、コピーに口だすなよ。」 多かれ少なかれ、こういうことは多いと思いますが、そのときのコピーライターの心情は、こういうものだと思います。俺は言葉の専門家であるのに、言葉の専門家でもない人間があれこれ簡単にいいやがって。特に言葉は人を表すというように、言葉を否定されることは、その人を否定されるに等しいような感覚を持ってしまいがちです。 コピーライターが言葉の専門家であるというの

    コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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