宇井君,また君が先に行ってしまったな.君と僕は不思議なほど同じときに同じことを同じようにやってきたのだが,肝心なことになると君のほうが1,2年は早い.今度もそうではないかという気がする.そんな僕は君の追悼記を書く気にはならないのだが,数十年まったく同じ環境を生きて,至近距離で君を見てきたほとんど唯一人の人間として,われわれをとりまいた歴史について証言を残さなければと思っている.歴史といっても年代記ではなく,大きな歴史の前に人はなぜそう動いたか,まわりはどう感じ,何をしたか,社会と人間心理を至近で見た歴史だ.ところがこういう歴史が少ない.時代を共有しない人が時代と人を理解するのにはぜひ必要なのにだ. これを強く感じたのは,毎日新聞に出た宇沢弘文氏の追悼文を見たときだ.彼の理想主義を結晶化した感動的な葬送の辞だが,「リベラルな社会を目指した倫理的,理知的,人間的巨人」という形容には,彼を近くで