タグ

philosophyとartに関するj0hnのブックマーク (25)

  • 【UTCP Juventus】近藤 学 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

    j0hn
    j0hn 2009/12/09
    「マティスが登場した19世紀末から20世紀末のフランスでは、急速に進展する近代化の諸問題が随所で噴出してきていました」
  • Amazon.co.jp: 芸術の哲学 (ちくま学芸文庫): 渡辺二郎: 本

    Amazon.co.jp: 芸術の哲学 (ちくま学芸文庫): 渡辺二郎: 本
  • 大竹伸朗について - 原田裕規 / Yuki HARADA (1989~)

  • 「知りたい・行きたい」をかなえるニュースメディア|ウォーカープラス

    新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、施設の営業時間変更や休業、イベントが中止・延期になっている場合があります。 【施設の再開情報】|【イベント中止情報】

    「知りたい・行きたい」をかなえるニュースメディア|ウォーカープラス
  • 他人の欲望を反映する/呪術具的アート(および建築) - 原田裕規 / Yuki HARADA (1989~)

  • 『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から学ぶ"優れた"芸術の基準 | Theoretical Sociology

    でも、これがアートなの?―芸術理論入門 この商品の他のレビューをみる» 評価: シンシア フリーランド ブリュッケ ¥ 2,940 (2007-07) 学問を芸術のようなものだと考えるならば、優れた芸術とはどのようなものかを考えるべきだ。「実証主義反対!! 人文・社会科学は自然科学よりも文学や芸術に近いんだ!!」という社会学者たちは、芸術や文学がどのようなもの(であるべき)か、深く考えたことがあるのだろうか。というわけで、『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から、いくつかの考え方をまとめてみよう。 芸術儀式論 芸術は儀礼であり、芸術を通してカタルシスを得たり、集合意識を高めたりするものであるという考え方。絵具は血のメタファーというわけである。「儀式とは、誰もがよく知っている行為を通して共同体と神との関係を強めるものだ」(p.21)。 「...ヘルマン・ニッチュは、音楽と絵画、葡萄絞

    『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から学ぶ"優れた"芸術の基準 | Theoretical Sociology
  • ニコニコ動画による文化の生成 - maraigue's blog

    参考記事:梅田望夫:日のWebは「残念」でもいいじゃん ■ nojiri_hRT @sasakitoshinao: だいたい過去、浮世絵とか戯作とかアニメとかニコニコ動画とか、そういうヤクザなもの以外に世界で認められたものなんて日にあったか?■ nojiri_hRT @sasakitoshinao: 日のネットは、バカと暇人の集積からフィルタリングして一握りのすぐれたクリエイターを生み出すために存在しているのだ。■ weekly_utaran [Re]@nojiri_h 源氏物語なんて不倫と近親相姦の物語ですもんねw■ nojiri_hMTMで一部のアート系の人たちから白眼視されながら、ニコニコ技術部が出展してるのも、そのへんなんだよな。あえて萌えキャラをでっかい看板にして。■ nojiri_h [Re]@weekly_utaran 紫式部が現代に出現したら、乙女ロードにまっしぐらで

    ニコニコ動画による文化の生成 - maraigue's blog
  • 哲学者と芸術家 - 反省芸術・糸崎公朗blog3

    関連リンク ブログ1・路上ネイチャー協会 ブログ4・反-反写真 ホームページ・itozaki(仮設Fc2版).com/ ブログ2(休止)・2コマ写真 電子メール・itozaki.kimioアッとgmail.com (*写真と文は関係ありません) ぼくはつい最近まで、芸術と哲学はまったく別物だと思っていた。 いや、つい最近であるところの現在も、芸術と哲学は同一だと思ってるわけではなく、その区別が曖昧になってきているのだ。 そこでとりあえず、ぼく自身が捉えていた「哲学」と「芸術」の違いについて、整理してみようと思う。 ここで言う「哲学」とは、哲学者の中島義道さんが著書で示した「哲学観」である。 もちろん、「哲学観」を規定できるのは一人中島義道さんではないから、もっと別のいろいろな「哲学観」があるかもしれない。 さらに、素人のぼくごときが、専門家である中島義道さんの「哲学観」をどれだけ理解して

    哲学者と芸術家 - 反省芸術・糸崎公朗blog3
    j0hn
    j0hn 2009/04/29
    「そんなふうに「芸術」に躓いていたら日常生活がまともに送るのが困難になり、だから芸術家は「芸術病」という別の病気の患者なのである」
  • ふんぞりかえっているのは誰か - SUPER FLAT 2

    村上隆が日の有名批評家を挑発している。「フランスで勝負できもしねえくせして、日でふんぞりかえっているんじゃねえよ」と。しかし、それが「勝負」であるかどうかはともかく、たとえば『「歴史の終わり」を越えて』(中公文庫)を読んでも分かるとおり、浅田彰はフランスの思想家たちとガチに対話し、しかも「御説拝聴ではなくて、しっかり議論して、むしろ押している(福田和也の解説より)」のである。そして、それでいてつねに「私のことなどどうでもいい」とすこぶる謙虚で、およそ「ふんぞりかえっている」ようには見えない。むしろ「ふんぞりかえっている」のは村上隆の方であり、誰がどう見たって「いかがわしい」のも村上隆の方である。おそらく村上隆が「世界で勝っても日では負けた」(人談)のは、日人の批評技術が、ある部分で世界的に勝っているからである。実際、日の批評家がフランスの批評家と「勝負」しても負けるとは思えない

    ふんぞりかえっているのは誰か - SUPER FLAT 2
  • 中里一日記: ビデオゲームでわかる美術鑑賞

    ビデオゲームでわかる美術鑑賞 岡太郎『今日の芸術』(光文社)を読んだ。1954年に書かれた、古いだ。 古いということは、時として、わかりやすいということを意味する。書の主張も、おそらく五十年前にはわかりにくかったのだろうが、今ではずいぶんわかりやすい。書の主張のうち私が同意できる点について、ビデオゲームを例にとって紹介してみる。 ・芸術はここちよくあってはならない ゲームをプレイするということは、たいてい、緊張するということだ。少なくとも、慣れていないアクション物をプレイするときには、のんべんだらりとはしない。また、たとえ一道のADVであっても、緊張感なくプレイさせるゲームは、なにかしらゲームとしていびつであるように思える。 また、アクション物の多くは、自機がやられてゲームオーバーという不愉快な結末を迎える。アクション物をやるプレイヤーは、丁重にここちよく扱われて満足するためでは

  • Amazon.co.jp: The Philosophy of the Visual Arts: Alperson, Philip: 本

  • Nietzsche on inspiration

    j0hn
    j0hn 2008/09/21
    ニーチェ。 思いつきっていうか創造性みたいな話。
  • コソボ出身アーティストの当事者性 - Eur-Asia

    西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。 先週末にコソボ出身のアーティスト兼キュレーターであるエルツェンと会ってきて以来、ずっとすっきりしないものがある。またも、と自分で思ってしまうのだが、当事者性の問題である。 コソボという、NATOすなわち自由世界(経済的な意味で、もっと言ってしまえばネオリベ)によって守られた地域に住んでいるアーティストにしてみれば、ネオリベ批判は不可能なのかもしれない。しかし、そのNATOの空爆が直接アフガン空爆とイラク戦争に結びついているとしても、それに対して批判的な立場を取ることが不可能だ、と言えてしまうのだろうか。 コソボをセルビアではなくコソボたらしめているのは、ネーションを規定したイスラ-ムという彼らの宗教性であり、それはボスニア同様、オスマン・トルコ時代の名残である。そして、

    コソボ出身アーティストの当事者性 - Eur-Asia
    j0hn
    j0hn 2008/08/04
    「それを見ていると、やはり芸術はフーコ-の指摘する通り、公開処刑禁止後のモダニズムにおける文化統治として機能しているのだなぁ、と思ってしまう」
  • Twitter / Sunagi"IMA"farthest: 芸術を通じてしか自己を表現する手段がなくて、そうしない...

    Twitter / Sunagi"IMA"farthest: 芸術を通じてしか自己を表現する手段がなくて、そうしない...
    j0hn
    j0hn 2008/07/19
    via otsuneさんの twitter
  • Amazon.co.jp: 崇高の美学 (講談社選書メチエ): 桑島秀樹: 本

    Amazon.co.jp: 崇高の美学 (講談社選書メチエ): 桑島秀樹: 本
    j0hn
    j0hn 2008/06/29
    今朝の日経
  • Meeting Cell : アントニオ・ネグリ未来日 | ネグリさんとデングリ対話

    芸術とマルチチュード 議論セル企画座談【3月30日(日)13時〜14時半】 アントニオ・ネグリ/田中泯(ダンサー)/川俣正(美術家)/高嶺格(美術家)/宇野邦一(現代思想) 司会=廣瀬純(龍谷大学教員) 「芸術は人間の全運動を先取りする。芸術とは、構成する力であり、革命の力なのだ。」A・ネグリ『芸術とマルチチュード』 「社会体に組み込まれているとはいえ芸術は、自らを支えるものとしては自分しかもっていません。これは生み出された作品はすべて二重の目的をもつからです。一方で作品は、社会的ネットワーク内に挿入されることを目指し、社会はそれを受け入れるか打ち捨てるかになります。もう一方で作品は、芸術の宇宙を、まさに自ら崩れおちるというおそれの下にある限りで讃えようとするのです。」F・ガタリ『カオスモーズ』 大ラウンド・テーブル「マルチチュードか、プレカリアートか?」── この国の「路上」からトニ・

    j0hn
    j0hn 2008/03/18
    徒然と……さん(lysanderさん)より 「アントニオ・ネグリ/田中泯(ダンサー)/川俣正(美術家)/高嶺格(美術家)」
  • 2005-02-02

    外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基的に『現代アートの哲学』に依拠。 作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、それが帰属する様式のクラスといった、その作品が位置する現実の歴史についての知識を前提とする。 なにも美術史的な知識だけが、アート鑑賞に際して動員されるわけではない。「真理の経験としての芸術」という考え方が広く受け入れられている。 詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考え方は、古くからある。 プラトン→詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写し取ることで、真理をゆがめるいわゆる仮象として、これを断罪した。 アリストテレス

    2005-02-02
    j0hn
    j0hn 2008/03/04
    面白~い
  • PLANETS読みました - the deconstruKction of right

    宇野常寛さんが編集長をされている雑誌『PLANETS』を読みました。非常に面白かったです。特に、東浩紀好き、というか転移すらしちゃってる僕なんかは問題意識がすごくツボで、対談は最近読んだ対談の中で抜群に面白かったです。 内容の個々の部分は色々ありすぎて書けないんですが、全体の印象として。宇野さんの男性的な、要約の仕方と言うか、切り捨て方が、すごくユーモアがあって、小気味よい。それに対して東さんが結構身も蓋もないような反論をマジでしているのも面白い。 2ちゃんねるやブログ論壇的には宇野さんは叩かれていますが、ヲタク絡みのところに関しては、僕は基的に正しいと思う。ただ、僕は、「小さな成熟」というよりは、「成熟しなくてもいいから犯罪とかひとに迷惑かけるのやめろ」ぐらいでいい気がします。 で、ごく一部だけちょっと取り上げます。東浩紀の転向問題と「実存と社会」の部分ですね。これは「マンガ論争」のと

  • 美しさの定義 - めもり〜り〜く

    もう何年も前、ぼくがボロボロの修士論文を書いていた頃の話。 その頃のぼくは、とあるかなり規模が大きくちゃんと動いているプログラムを、その当時にモダンだとされていたとある言語で書き直すことで、どういった利益が得られるか、といったことをやっていた。まあ、たいしたことをやっていたわけじゃない。そんでもって、設計を中間発表で説明する際、「XXなので美しい」「YYなので美しい」と表現していた。 それに対して、とある教授から投げかけられた言葉が「美しさを定義せよ」だった。いまから考えれば当たり前のことだし、当時それが当たり前だと思えてなかった自分は失格としか言いようが無いんだけど、翻って考えてみるに、なんでこれが当たり前なのかは案外共有されていない気がする。 それは、定義されていないものは計測できないということ(あまりに当たり前すぎて赤面)。計測できないことは評価することもできず、評価できないというこ

    美しさの定義 - めもり〜り〜く
  • 弊社インターネットサービス等の提供終了について

    弊社は、1985年5月の創業以来、パソコン通信サービスを皮切りに、1999年には国内初の商用ADSLサービスを開始し、近年ではFTTHを利用した接続サービスを展開するなど、様々なインターネットサービス等を提供して参りました。これもひとえに皆さまのご愛顧によるものと深く感謝しております。 しかしながら、設備の老朽化により、サービスを維持することが困難となったため、この度インターネットサービス等の提供を終了することにいたしました。 今までご愛顧いただきましたお客さまには深く御礼申し上げますとともに、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

    弊社インターネットサービス等の提供終了について