カジノに足を踏み入れると、どのカジノゲームをプレイすべきかなんて忘れてしまう可能性があります。初心者のギャンブラーは、特にそうです。しかし、そのような場合でも、一つだけ覚えておいてください。最も勝てる可能性が高いゲームは、ずばりテーブルゲームです。
▼「2015年度 文化人類学解放講座A/B」 [時間] 毎週水曜4限 15:00-16:30 [場所] 中央大学多摩キャンパス3号館文学部総合棟3114教室(300人教室) [講師] 小田マサノリ 文化人類学は「文化」をとおして「人間とはなにか」を考える学問です。自分たちの知らない「異文化」や「他者」を知り、それを理解することで、オルタナティヴなものの見方や考え方、生きかたを学びます。今年度の「文化人類学解放講座A/B」は、「リキッドモダン社会」とよばれる、流動的で、不安定ないまの社会のなかで人間らしく生きてゆくための知識やものの考え方などについて考えます。今学期の「文化人類学B」のテーマは、「グローバリズムとリキッドモダン社会」の予定でしたが、現在の社会状況にあわせて、「グローバリズムの時代の、世界の民主化運動と、その文化」に変更します。講義の内容については、このブログ(http://i
諸君10月号「ブログ論客かく語りき これが〈格差〉の現実だ」にジャーナリストの佐々木俊尚さん、「アンカテ」主宰アルファブロガーessaさん、「天漢日乗」主宰アルファブロガー天漢さんの鼎談があって、それはそれで面白いには面白いのだけど、出だし近く、ブログ論壇というのは75世代が中心かなみたいな話があり、それはあれかな、06年8月の文藝春秋に梅田望夫さんの「グーグルを倒すのは'75世代だ」のエッセイの流れだなとか読んでいくと、その梅田さんは47歳とあり、ファイナルベントさんは50歳というのがあった。え?と思うより、ちょっと他人事のような感じがしたのは、俺っち50歳をしっくり受け止めてない部分はある。と、枕。 でも、50歳という、自分に積み上げられた年月もだけど、それより自分が生まれた昭和32年、西暦1957年という時代の感触を思うこともある。世代論的には私は、団塊世代から新人類世代への中間の徒
▼「みんなのメッセージ」より 「みんなが自由に使える公園が有料になって、公園という名の商業施設になるということは、 公園を使う人が限られてくるということです。みんなの公園ではなくなります。それは街にとって、長い目で見たらとってもとっても!!もったいないことですよ。渋谷のような大都会にこそ、自由な公園が必要なのです。」(西口陽子) 「私はただ座っていたいだけ。宮下公園はそれができる貴重な場所です。何かをしてくれると言うのなら、ただ何もしないでいられる場所を残しておいてください。」(篠崎智子) 「渋谷駅の周りを歩いて唯一オアシスと言える公園をナイキに好きなようにしたとして必ず数年後後悔することになる。渋谷区は宮下公園だけでなく、その周辺も含めもっと真剣に考える必要がある。」(戸田) 「渋谷で育ちました。今でも家族が住んでいます。宮下公園にはよく行きます。はでさはないけど、あの線路ぞいにながーく
■「言語」から見る世界 日本の学生がシリコンバレーに私を訪ねてくることがある。そんなとき私は、近所のタイ料理屋に学生たちを連れていく。ベジタリアン・メニューが充実していることもあって、この店はいつも大繁盛している。話と食事に夢中になっている学生たちに、頃合(ころあ)いをみはからって私は、ちょっとまわりを見渡してごらんよ、と促す。 彼ら彼女らは、一様にはっとする。こんなに色々な人種の人たちが混ざっている中で、日本人ばかりで話をしていたのかと。アメリカは「人種のるつぼ」いや「人種のサラダボウル」だといった話は、知識さえあれば誰にでもできる。しかし、ありとあらゆるテーブルが、オリンピックの選手村のような様相を呈する迫力は「百聞は一見に如(し)かず」、体で感じるのがいちばんなのである。 スポーツのルールという形で普遍性が確立されて普及すれば、世界中の選手が自由に競争できる。日本の選手ばかりでなく、
フリーペーパー「PEPPER SHOP」:古賀学が1993年(20歳)に創刊したフリーペーパー。1号につき1人のクリエイターを軸に「インプット(影響を受けたモノ)」と「アウトプット(世の中に発信していること)」をテーマにインタビューし、5000字〜10000字のテキストを掲載していた。東京藝術大学/多摩美術大学/武蔵野美術大学/女子美術大学/女子美術短期大学/創形美術学校/阿佐ヶ谷美術専門学校/ほか美術系大学や専門学校の掲示板付近、Shop33(吉祥寺)/レントゲン藝術研究所(大森)/DEP’T STORE(原宿)/デジタローグギャラリー(神宮前)/P-House(渋谷)/SCAI THE BATHHOUSE(谷中)/マニュアルオブエラーズ+タコシェ(高円寺)/VIE DEE WOE(下北沢)/ガーディアンガーデン(銀座)/Mix(青山)/パラボール(原宿ラフォーレ)/パリススキャンダル(
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通路のほうが怖いんですよね。 おばけそのものはじつは怖くない。 でも、いつ出てくるのか、 どんなのが出てくるのかって思いながら 薄暗い通路を歩くときがいちばん怖いわけで、 最近の世相も、そのおばけ屋敷の通路に はまり込んじゃったなって気がしますね。 たとえば北朝鮮が核実験をやったと。 それはいったいどの程度の威力があって、 どの程度、ぼくたちにとってリスクがあるのか。 たしかにハザードは大きいですよ。核ですから。 でもそれを言えば、インドやイスラエル、 アメリカやロシア、中国のハザードだって 同列に論じられなければならない。 そのへんを冷静に論じるんじゃなくて、 実験をやったという段階で、 もう、通路の怖さがどんどん増してしまう。 危機管理意識ですね。 そこで正義や大義が乗っかってくると、 実体のない盛り上がりになってしまう。
⇒黒崎夜話: 透けた縞 黒崎さんはいわゆるジャーナリストだろう。つまり、これがプロの水準。 Bigbangさんの今回の尽力こそ、アルファーブロガーと呼ぶべきものだろうと思う。まあ、そういう形容は無意味なのかもしれない。ブロガーがもっともブロガーらしく存在している最もきつい場面であり、よく立っていられるものかと敬意を覚える。 構造的に見れば問題のエンド・ポイントのひとつは、泉さんのようなスタンスはすっこんでろ、であろうし、黒崎さんがここで「成程、一定の社会性を身につけることなく通り過ぎてきた人生もあるのだろうという気にもなった。」ということでもあろう。それは、それで、おさまりのいいエンド・ポイントでもある。 私はこの問題は傍観者だったった。単純に言えば、私も黒崎さんくらい黒い年寄りであるし。ただ、その先にはブログというもの(新しいもの)はない。 Bigbangさんは、踏み込んだ。 R30さん
今年のアカデミー賞で作品賞ほかにノミネートされている映画『グッドナイト&グッドラック』は、マッカーシー上院議員による「赤狩り」が吹き荒れる50年代を舞台に、政治的な傾向のあるマスコミ関係者が次々と社会主義者と決め付けられて弾圧されるなかで、マッカーシーに敢然と立ち向かったCBSのキャスター、エド・マローの勇気を描いている(詳細)。 しかし、なぜ、今、50年も昔のことを映画に? 製作・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、赤狩りの恐怖のためにマスコミ関係者が政府批判を避けるようになった50年代が、対テロ戦争の下、マスコミがブッシュ政権を批判しなくなった現在の状況とが似ていると考え、ジャーナリストに本当の役割を思い出させるためにマローのことを映画化しようとしたのだ(クルーニーは大学まではキャスター志望)。 この『グッドナイト&グッドラック』のシナリオをクルーニーと共同で執筆したグラント・ヘスロヴ
第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を 第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を超える 観衆が集まった。 本大会は、戦前の剣道界の慣習であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けず、 各府県の予選を経て代表者を出し、剣道日本一を決するという画期的な構想によるものだった。 優勝の榊原正は大正9年愛知県蒲郡市生まれの33歳、名古屋矯正管区法務教官(剣道師範)、のちに剣道範士八段。戦前は名門東邦 商業で活躍した剣士。準優勝の阿部三郎は大正8年福島県相馬生まれの34歳、警視庁の剣道選手でのちの
ある日、私にファッションチェックの仕事がまよいこんだ。 私にとって、ファッションチェックとか、着まわし術とかいうのはとても苦手な分野なのだ。 「ストーンズのファッションチェックですから」という相手に、出来ませんといえば、「仮にもスタイリストだし、仮にもロック好きでしょう」と思われるばかりか、ちょっとエラソーにしてるみたいに見えちゃうかな。 とまあ、私の中の、良く思われたい精神が勝ってお引き受けしたのでした。 でも、40年にわたる彼らの歴史的写真を見せてもらって、いちばんお勉強したのは私自身だった。担当の若者たちとわいわいしゃべって、来日中止時の秘話で 盛り上がったりしてね。 1990年の公演の時、私はアキレス腱を切り、その手術後でまだ松葉杖をついていた。 交通渋滞でタクシーは進まず、やっと開演時間ピッタリにドーム前に着いた。 わーっという歓声が上がり、曲が始まっても、私は松葉杖で必死に歩い
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